29.4.12

モントリオールの夏休み1985ーその6(ストラットフォード)

今日の午前中は、我が家の猫を獣医さんに連れて行きました。喘息気味でステロイドをのんでいるのですが、その喘息が最近、くしゃみに変わってきて、くしゃみが出るとなかなか止まらないという状況がここ数日続いていました。獣医さんには、他にも風邪をひいてくしゃみが出ているという猫がきていました。とりあえず抗生物質の薬をいただいてきました。くしゃみがとまってくれるといいのですが。

獣医さんの車です!かわいいでしょう?

獣医さんからの帰りに寄ったホスピスのチャリテイーショップで、ケベックの写真集の本を見つけました。猫を家に送ってから、この本を持ってお茶をしにでかけ、そこで私のパートナーに写真集を見せながら少しケベックの思い出を話しました。でもあまり興味なし!今日はちょっと風邪が強いなかでの外でのお茶でしたが、ケベックの懐かしい写真をみながらうれしいひとときでした。



では、モントリオールの夏休みーその6をスタート!キッチナー/ウオータールーからストラットフォードまでの(できればモントリオールまで!)お話です。

キッチナーの駅では、私の曖昧な記憶によると、あのナイアガラの滝でお世話になったベッド&ブレックファストの息子さんが、キッチナー周辺に住んでいるということで、そこのお母さんが、「ぜひ会って!駅に来るように連絡するから」 とかなんとかで、会うことになっていたのでしたが、姿はどこにも見えなかった。。。という結果でした。
現在の時刻表を見てみると、私たちがキッチナー/ウオータールーで過ごしたのは、ほんの数時間だったようです。息子さんらしき人も見当たらず、マーケットをみてその周辺を散歩してから、ストラットフォードの街へ。


  
 ストラットフォード(Stratford)は、キッチナー/ウオータールー(Kitchener/Waterloo)のすぐ北のあたりにあります。


キッチナー/ウオータールーからストラットフォードまでは、トロント行きの電車に乗って、37分しかかかりません。
27年前もたぶん同じような時刻表だったと思います。なぜなら、ストラットフォードに到着したのは、日が暮れていたのを覚えているからです。ストラットフォードの駅のライトが、プラットフォームを照らしていました。 






夜のストラットフォードの街は、こんな感じでした。

ストラットフォードに寄ることになったのは、トロントからキッチナーに向かう電車の中でこの街で、ちょうど今開催されているというシェイクスピアフェステイバルを勧められたからでした。勧めてくれた人は、そのフェステイバルでシェイクスピア劇のステージに立つという人でした。(セミ?)プロの演劇の俳優だったか女優だったか。。。そんな人たちの一団が乗っていたのでした。誰とでも気楽に親しく話し、おもしろそうなことに興味をもつ友人、ブレンダさんは、「こんなチャンスを逃すことはない!ストラットフォードで数日滞在しよう!」ということになったわけです。「えええええ!。。。。」としぶしぶその決断にしたがった私。先がまったくわからない旅になってきた気分に。。。




ストラットフォードについては、何も知らずに滞在を決めたわけですが、名前からも想像できるように、とても英国的な街でした。ストラットフォードというのは、シェイクスピアの出身地、Stratford-upon-Avonの名前からとられてものだそうです。街にはエイボン川もありました。ちなみに、ニュージーランドも昔はイギリスの植民地。英国系の白人が多く住む南島のクライストチャーチも英国的な街です。そしてそこを流れる川もエイボン川と呼ばれます。



ストラットフォードの中心街(この写真は冬ですが!)


今、ネットでこのストラットフォードについて調べてみると、なかなか素敵なところであったことがわかります。でも、85年の夏に私が知ったことは、この街は、シェイクスピアの悲喜劇を上演するというフェステイバルで有名だということ。そして覚えている事は、数あるステージのうちから「パイレーツ」という喜劇のステージを観劇したこと。とても大きな会場だったことをおぼえています。たぶんこの会場は、シェイクスピアフェステイバルシアターという建物だったのでしょう。でも会場は一つだけではなかったような気もします。


シェイクスピアフェステイバルシアター
入り口の前には、ロボットっぽいシェイクスピアの像があります。




シアターの中 


パイレーツのステージ



こんな感じで観劇していたのでしょうか。でも記憶では、もっと近くでステージを見上げるようにパイレーツの船のシーンを観ていたように思うのですが。もしかすると私が観た会場はまったく違うところだったのかも!


シェイクスピアフェステイバルのオフィシャルサイトにあったビデオを観てみて下さい。ストラットフォードの街のこともわかりますよ。宿泊したB&Bは、シアターのあったクイーンズ公園に近いところで、エイボン川のほとりにあったと思います。花でいっぱいの公園を散歩したことを覚えています。





Stratford shakespeare Festival
Discover All Stratford Has to Offer ビデオ

このビデオによると、シアターは、全部で4つあるそうです。やはり!私の行ったシアターは、紹介したシアターではなかったのかもしれません。「パイレーツ」を観劇した後は、電車で出会ったシアター俳優の人たちが祝杯?をあげているパブにおじゃまして一緒に飲んで(私はジュースだった)華やかな雰囲気が素敵でした。


ところでルネの情報は?

 フェイスブックのpassion siamrdのルネの思い出のページで見つけた、かわいらしいルネ。日本に来ていた頃のルネですね。みたこともないようなルネのお宝とも言える写真やビデオが公開されているので、その度に、ケベックのファン、英語圏のファン、そして日本のファンの方達と一緒に喜んだり思い出話をしたりしていますよ。



ストラットフォードでルネの話題?またはニュースを聞いたと思いますか?いえいえ、まだルネについて知っている人には、会いませんでした。なんてことなのでしょう。同じカナダ、それもだんだんモントリオールに近づいているのに。。。ルネは、85年の頃には、ケベック州だけで活動していたようです。だから、ルネのことは、ケベック州の人以外あまり知る人はい ないようでした。ルネのレコードも、ストラットフォードには、なかったのです。英語圏のカナダとフランス語圏のカナダ(ケベック州、オタワの一部)では、まったくちがう2つのカナダということが私の胸の中にもひしひしと伝わりはじめたのでした。



ルネと妹のナタリーが85年にデユエットで歌っていた Fais pas la queulaのビデオです。これは、ケベックシテイのセントローレンス川で撮影されてものだと思っていましたが、facebookのケベックのルネファンによると、フランスで撮影されたものだとのこと。

photo@chantal mandeville/ chantal lachapelle

85年のルネと妹のナタリー。ナタリーは、このとき、小さい子供たちに大変人気のあるテレビ番組をしていたりもしていました。この写真は、ナタリーの大ファンであるfacebook のお友達、 Chantal Lachapelleさんより、シャンタル博士のコレクションをシェアしていただいたものです。

やはり、今週もモントリオールには、たどり着けずに終わってしまいました。。。でも、いよいよ来週はモントリオール編がスタートです!自分でも楽しみです。


ルネについては、ほとんど書く事ができませんでしたが、読んでいただきありがとうございました! 


riko auckland/nekonomiminoura/しゃむねこ


22.4.12

モントリオール1985年の夏休みーその5(キッチナー/ウオータールー)

この週末のオークランドの街には、赤いポピーの(造)花を胸につけた人が多く見かけられます。赤いポピーの花は、これまでの戦争で命を失ったニュージーランドの兵士の事を憶う意味がこめられています。正式には、来週の4月25日が「ANZAC DAY アンザックデー」と呼ばれるその祝日ですが、今週から街角やお店、学校や、オフィイスなどでこのポピーの花が並び、募金をして、ポピーの花をひとつもらい、胸につけて追悼と今もその人たちを忘れないという意を表します。


アンザックデーのANZACとは、Australia New Zealand Army Corpの略で、元々は、第一次世界大戦で、オーストラリアとニュージーランドの兵士が、イギリス軍の指揮のもとに戦ったガリポリの戦いで命を落とした兵士たちを追悼するものだったそうです。


赤いポピーは、第一次世界大戦後、カナダ人の軍医であったMcRaeが、今はベルギー、フランス、オランダに分割されているフランダースの戦場跡地に咲いたポピーの花を見ながら、そこで戦友を失った悲しみを綴った詩に由来しています。


私のパートナーの祖父は、第一次世界大戦でフランスの戦場、そして父親は、第二次大戦で技師としてイタリアに行っていました。今年も、赤いポピーを身近におこうと思います。



アンザックデーの赤いポピーとカナダ人の軍医が結びついていたことは、新しい発見でした。カナダー>ルネ!という考えが頭を巡り、またルネやカナダが愛おしくなってしまいます。


赤い線がバンクーバーからトロントまでの横断鉄道の路線 ナイアガラの滝まで行くには、トロントから電車を乗り換えて、約2時間の旅です。路線は、右側の水色です。






 先週話していたナイアガラの滝のナイトアップは、まさしくこのような感じでした。どちらかと言うと派手な虹色のような。右上に見えるのは、もしかするとアメリカ側にわたることができる橋だったような記憶があります。


では、今週の「モントリオール1985年の夏休み」 その5をスタートしましょう。ナイアガラの滝からの話です。モントリオールまで行き着くでしょうか。。。!? ナイアガラを朝一番の電車に乗ってトロントへ。そしてトロントから電車を乗り換えて、キッチナー/ウオータールーまで行き、ストラットフォードに落ち着くところまでを書いていきます。

 
photo@subwaynut
ナイアガラの滝駅


ネットで探して使わせていただいているこの写真を見ても、この駅がこのようだったということを覚えていません。この駅は現在の駅のようですが、果たして85年も同じ駅だったのでしょうか。さて、ナイアガラの滝の駅を朝一番で出発とメモには、書いてありましたが、トロントまでは約2時間。どこにも降りずに(と行っても途中の駅は、2つぐらいしかないようです。)トロントへ向かい、そこで電車を乗り換えて、キッチナーとウオータールーに行ったと思います。トロントの街をなぜ観光しなかったのでしょうか?時間が無かった、それとも興味がなかった?うーん。。。どうしてなのか覚えていませんが、今考えてみると多分そのどちらも理由だったのだと思います。



 現在のナイアガラ/トロント間の時刻表。夏だけは、一日に3回電車が走るとのこと。その他の期間は、2回のみ。朝一番ということは、午前6時21分発の電車ですね。こんなに早く行動できていたのでしょうか。(信じられません!)


キッチナー/ウオータールーに行きたかったのは、私で、ストラットフォードは、どちらかというとブレンダさんが行きたかった。それも、キッチナー/ウオータールー へ向かう電車の中で知り合った人からストラットフォードのシェイクスピアフェステイバルを勧められて、突然ストラットフォード行きを決めたのでした!今、考えれば、こういうことこそ旅の醍醐味だと思うのに、その頃の私は、「予定した通りに行動したい!」(早くモントリオールやケベックシテイへ行きたい!)という考え方をしていましたから、この決定に完全に「ムッ」としてしまったことを覚えています。ブレンダさん本人は、この決定が嬉しそうにニコニコしていましたけど。(いつもニコニコの人なんです。)

キッチナー/ウオータールーと言う地域には、メノナイトと 呼ばれる人たちが多く住んでいます。メノナイトの人たちは、自分たちの宗教の教えを守って暮らすために、現代的な物に頼らず(電気、自動車など)、なるべく自給自足をして、昔ながらの生活をしています。アメリカ映画「Witness/ウイットネス/証人」でアーミッシュと呼ばれる人たちの暮らしが描かれていましたが、アーミッシュは、メノナイトの宗派から分かれた人たちなので、メノナイトの暮らし方と良く似ています。私は、その映画、「証人」(主演はハリソンフォードだったかな。。)を見て以来とてもその暮らしに興味があったのです。昔、「大草原の小さな家」というアメリカのテレビドラマがありましたが、その暮らしにとても似ています。服装も!



BC州に住んでいた時、散歩する山道の高台にメノナイトの家族が住んでいて、話こそしませんでしたが、散歩に行くと、いつも手をふってくれたりしていました。ふつうは、車は使わないと聞いていましたが、この家族は現代的なのか、馬車のかわりに黒い車を使っていました。


キッチナー/ウオータールーでは、メノナイトの人の暮らしと、その人たちが作るキルトを見たいというのが希望でしたが、駅の近くのマーケットを見るだけで終わってしまいました。マーケットには、野菜など食べる物が主だったので、キルトを見る事はできませんでした。


            photo@Not quite Marco Polo

メノナイトの人たちのマーケットは、こんな雰囲気でした。写真は、キッチナーの近くにあるセントジェイコブズの街のメノナイトのマーケット。


このようにみんなで時間をかけて作ったキルトですから、ベッドスプレッドなどは、1000ドル以上もするようです。これは、ウオータールーのメノナイトの人たち。


このようなキルトを見ることができたら素晴らしかったでしょうに!

ところで、ルネに関する話題もルネのレコード(この当時、cdは生まれていませんでした!レコードのみ)についても、トロント州であるナイアガラの滝周辺、そしてもちろんちょっと田舎のようになのどかなキッチナー/ウオータールー周辺でも、まったく情報はありませんでした。都会であるトロントの街では、どうだったのでしょうか。

後でわかることですが、首都であるオタワの街のレコード屋さんには、あったんですよ。この頃のルネの圧倒的に人気のあった曲は、Comment Ça Vaという曲。これは、前年の1984年に、ADISQ (Association du disque, de l'industrie du spectacle québécois et de la vidéo) という、ケベック州で活躍する歌手、芸能、映画などで活躍する人で構成される協会(1977年に創設)から、Félix Awardというレコード業界で活躍した人に贈られる賞を受賞しています。


1984年のADISQでFélix Awardを受賞した時のルネ

ですから、この曲のシングルレコードやアルバムなど、そして1985年に発売された Et tu danses avec lui, ナタリーとのデユエットでの Sur la plage (1984年発売)などは、 オタワの街のモールで見かける事ができました。感動!しました。。。が、オタワに行ったのは、モントリオール/ケベックシテイの後でしたから、ほとんどのレコードは、モントリオールですでに見て大きく感動していたのでした!


Comment Ça Va (youtube)
このビデオをアップしているマリエルさんももちろんfacebookにいますよ!








photo@ebay, sous le sunlight des tropiques@chantal hakase page


オタワの話や、モントリオール/ケベックシテイの話が少し入ってきたので、今までよりもなんだかドキドキしてまいりました!まだストラットフォードにも行き着いていないのに!

ストラットフォードは次回になってしまいます。この記事を終える前に、「大草原の小さな家」の話にまた戻ります。このドラマの中で、金髪のネリーという意地悪な女の子がいました。そのネリーの役をしていたAlison (アリソン)Arngrimとルネは、なんとつながりがあるのです。
これは、以前グーグルのグループサイトで「ルネの恋」というタイトルのページがあり、そこで紹介していましたが、そのページがもうなくなってしまっていますので、ここでちょっと紹介しておきましょう。

大草原の小さな家のネリーオルソン役をしていた時のアリソン

「ルネの恋」というのを読んで、もう「あっ!」と思われたと思うのですが、ルネが20才でアリソンが19才の時、ルネとアリソンは、恋人同士という関係があったそうです。この話には、いろいろと憶測がとりまいているのですが。

1975年、ルネが日本から去り、アメリカ進出を目指して、初めて英語とダンス、声楽のためにロサンジェルスに行っていたとき、お姉さんのリンとお世話になっていたのが、このアリソンの家でした。それは、アリソンの父親、Thor Arngrimがルネのロサンジェルスでのプロモーターだったからでした。
photo@passion rene nathalie et regis simard 

ルネの横にいるのがアリソンです。




アリソンの父親で、ルネのアメリカでのプロモーター/エージェントだった Thor Arngrim


その縁があってかどうか、1981年、ルネが20才の頃、「ルネの新しい恋」などというタイトルの記事や二人の写真が出ていました。1970年の終わり頃から1980年にかけて、ルネには、もっと真剣におつきあいをしていた別の女性がいたようなので(この話は、また後でいたしましょう。)このアリソンとのおつきあいというのは、「なんだかなあ。。。」という気もいたしますが。


この「真剣なおつきあい」に関してルネから直接話しを聞いたというローラさんというグループのメンバーのお話では、この別の女性がいたし、アリソンとの恋は、ルネをアメリカで売り出すために使われたのではないかということですが。ローラさんは、カナダの英語圏に住むルネのファンですが、ルネがその地域で活躍していた頃、ルネととても仲良くなったファンの一人なのだそうです。

昔のこととはいえ、少し嫉妬?してしまいますが、ルネにだって恋をする自由はあるのですからね!そしてそのことをいろいろと話題にされてしまうことは、嫌な事だとおもいますが、記事になってしまっているので、私も少し気がとがめながらアリソンとルネのつながりを書きました。 




photos@passion rene nathalie et regis simard



では、最後は、passion rene nathalie et regis simard のグループからのかわいらしい11才のルネの写真で終わります。次回こそ、ストラットフォードを早めに行き過ごし、モントリオールへ向かえますように!
 
  
  
riko auckland/nekonomiminoura/しゃむねこ

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11.4.12

モントリオール1985年の夏休みーその4(ナイアガラ)

イースターのロングウイークエンドも終わり、オークランドの街もまた忙しく働く人の姿が見えるようになりました。ずっと暑いほどの数日が続いていたのに、 今日は雨。そして街路樹の葉も黄色くなって路地に落ちてしまって、秋がまた深まっている感じがします。東京では、桜も満開になっているとのこと。日本の淡 いピンクの桜の花びらを思うときは、いろいろな懐かしい思い出がよみがえります。やはり、4月は秋ではなくて、春、そして桜というのが私にはしっくりと落 ち着くようです。日本の桜の下で花びらを手にすることができるのは、こんどはいつのことでしょうか。



イースターエッグ
今年は、買い遅れてしまってイースターには、食べる事ができなかったチョコレートとマシュマロでできたイースターエッグでしたが、家人が普段行く事はないスーパーまで行って見つけてきてくれました。イースターは、過ぎてしまったけれど、食べるのが楽しみ!



さて、今週は、バンフからトロントへ向かい、ナイアガラの滝までのお話をし たいと思います。赤で書かれているものは、写真やイメージの説明です。メインのお話を黒で書いていきます。



image@VIA Rail Canada


この旅は、27年前のことで(27年!こうしてこの数字を書いてみると、ほんとうに昔のことだったのですね!)手元に、この旅で作っていたアルバムや写真がないので、自分の曖昧な記憶をたどり、訪れた場所をネットで調べ、イメージ検索で見つけた、他の方たちがアップしている写真を使わせていただき、この記事を書いています。


ネットで調べていて先ず気がついた事は、私が利用した大陸横断鉄道は、「モントリオール1985年の夏休み/その1」の記事で書いていた鉄道会社とはちがっていたことでした!(なんという頼りにならない記憶でしょうか。)それは、VIA Rail Canada で、本社がモントリオールにあるカナダの国営企業であることも、始めて知りました。


購入したチケットは、Canarail Passというレイルパスだったことも思い出しました。パスを見せて駅でその都度、チケットを受け取っていたようです。現在のバンクーバー/トロント間のこのパスの値段は、千数百カナダドルだそうですから安くはありませんね。私のパスは、バンクーバー/モントリオールまでだったと思うので、その当時いくらだったのか、アルバムに貼付けてあるパスの値段をみて見なければわかりません。


現在、トロントまで運行している大陸横断鉄道の列車は、The New Canadianという名前です。The New Canadianと言うだけあり、27年前の車両とは、比べ物にならないほど豪華な座席やサービスを提供しているようです。私も利用していたと思うエコノミーの座席でも、昔よりふっくらしていて座りごこちと寝心地が良さそうに見えます。ただし、日本の新幹線よりも車両の幅は、幾分狭いような気がします。


VIA Rail - The New Canadian ビデオ

トロントーバンクーバーまで旅する the New Canadianの様子をビデオで観ることができます。私の覚えている車内や私が乗っていたエコノミーの座席とも少し様子がちがいますが、素晴らしい景色は変わっていません。旅の雰囲気が楽しめますよ!



The New Canadianの車両。
昔の四角張った先端とは、とても違っています。右下の写真にある車両の先端が私の乗ったものによく似ています。




赤い路線が、バンクーバーからトロントまでを走るThe New Canadian の路線です。これは、27年前と同じです。




バンクーバー(BC州)からバンフ/ジャスパー(アルバータ州)へ。
この地図は、乗客に渡されるパンフレットの中にある The Canadian の路線地図。その他に、途中経由する地域や街、名所や歴史の説明が載っていました。今は、VIA Rail CanadaのサイトからPDFファイルとしてダウンロードすることができます。



バンクーバーからトロントまでは、4日間かかるので、バンフ/ジャスパーからトロントまでは、3日間ぐらいかかったと思います。 途中、マニトバ州のウイニペグで電車の入れ替えか何かで降車した以外、ずっと電車の中だった記憶があります。


電車の中には、ガラス張りの展望車両、そして スナックや飲み物を買える車両、そしてダイニングカーなどがあり、長期間電車に乗っていても平気だったのです。ダイニングカーでのきちんとした食事は、予約制。車掌さんのお じさんが車両を回ってきて予約と注文をとっていました。予約時間は、2つのうちのどちらかを選び、その時間になると、そのおじさんがベルをならしながらまた車両を回って食事の時間であることを伝えてくれるのでした。そのこと は、よく覚えているのに、何を食べていたか、またどんなところで寝ていたのかという記憶があいまいです。というか覚えていません!寝台車に寝ていた記憶は ないので、座席にそのまま寝ていたのでしょうか。


座席や展望車は、バンクーバーからバンフまでの山や川、湖、そして森という多彩に満ちた風景の路線でのみ 少し賑わっていましたが、その他は、とても空いていたと思います。バンクーバーからジャスパーまでは、日本からの団体の観光客が特別な団体の車両に乗っていました。ジャスパーで 降車し、バンフへというコースだったのでしょう。



ロッキー山脈付近を走る The New Canadian。少し高くなっている車両が展望車になっています。私の記憶では、この展望車は一つではなく、いくつかあったと思います。この写真でも、後ろの方にあと一つ展望車があるのが見えます。


photo@tripadvisor

展望車は、指定席がなくて、好きなときに行く事ができました。空席があれば、自由に座ってよいのでした。ガラス張りで景色を見るのには、とてもいいのですが、天気の良い日に長時間いるのは、少しチャレンジが必要でした。まぶしすぎて、暑すぎるから。クーラーなどは効いていなかったと思います。



photo@VIA Rail Canada

現在、車両の中で購入できる軽食の一つ。

ハム入りのクロワッサン、チーズ、生の人参?

そういえば、学校でランチにもってくるのは、生の人参一つとりんごなどという学生が結構いました。それをポリポリかじります。BC州の人たちが集まるパーテイでも、生の野菜をカットしただけでそれをいろいろなデップにつけて食べるというメニューはいつも人気がありました。人参、ブロッコリ、カリフラワー、きゅうり、セロリなど。私もいつしかポリポリと大好きになっていました。歯が丈夫でないとむずかしいかも。。。ニュージーランドの人たちも生の人参やセロリなどをよく食べますが、私が見たカナダの人たちよりずっと量は少なめ。



photo@Closet Canuck: O Canada!

ダイニングカー担当の車掌さん?(というのでしょうか)27年前のおじさんはもっと年を召した方で、帽子をかぶって車両を巡っていました。背後に見えるのがダイニングカーのテーブルと椅子。この方は車掌さんではなく、ウエイターの方のようですね。私も、2回くらい、このダイニングカーで、食事をとりました。


現在のエコノミーの座席のようです。リクライニングがちゃんとあるのにびっくり!27年前は、やはり大昔なのかも。レザーのような座席も昔とは大違いです。


バンフのあるアルバータ州からサスカチュワン州に入ると、カナデイアンプレーリーと呼ばれる大平原がずっと続き、時々現れる赤い(ものが多かったような気がする)グレインエレベーター(Grain Elevator)と呼ばれる建物が印象的でした。wikiによると、穀物の貯蔵施設で、巨大なサイロ(貯蔵ビン)と穀物搬入用のエレベーター、穀物の乾燥施設などが備わっているたてものであるそうです。現在はこのような昔ながらのグレインエレベーターの風景は消えて行っている状況のようです。



サスカチュワン州からマニトバ州


photo@flickr


赤いサイロは、こんな感じだったでしょうか。

同じカナダなのに、BC州とも目的地のケベック州ともまったく違うサスカチュワン州のどこまでも続く平な平原を眺めながら、ルネの「僕の国へおいで」を口ずさんでいました。


僕の住むカナダ、遊びにおいでよ〜
君の友達もみんなつれといで〜
鳥の歌声が森や湖に
美しくながれてる素敵なところさ〜
さあ、みんなで遊びにおいでよ〜

僕の住むカナダ、一度来てごらん〜
君も友達も好きになれちゃうよ〜
夏の草原や、冬の銀世界、
どこまでも果てしなく広がるところさ〜
ねえ、みんなでおいでよカナダに〜

そういえばルネも電車が大好きでした。車窓から顔をだして景色を眺めるルネの写真が「スーパーアイドル ルネ」(ニューソングブック臨時増刊号/ケイブンシャ)という雑誌に載っていましたっけ。そのルネのまなざしを私も大平原を見ながら思い出していました。

風に吹かれて

ルネは、電車が大好きです。たった一度だけ、ルネ一行は、電車に乗ることができました。一日中歩き回って疲れた一行の中で、ルネだけは、電車に乗ることが出来てご満悦。サラサラと髪を、風にまかせて.....電車の窓から、外の景色に見入ります。

「スーパーアイドル ルネ」25ページより



BC州での1年とモントリオールまでの旅の間大切にしていた物の一つは、ソニーのウオークマンタイプの白いラジオカセットレコーダーでした。ルネの歌を出来るだけ沢山録音したカセットテープも一緒です。このレコーダーは、両親の家に今でもありますが、たぶん動かなくなっていると思います。ネットでこのモデルの写真をやっと見つけました!これを持って、いつもルネの歌を聴きながら歩いていたのでした。それから、これは!と思ったものを録音したり、とても役に立ってくれました。今思うと、もっといろいろな音声を録っておけばよかったと少し悔やまれます。テープの音源は、MP3ファイルにしてitunesやiphoneなど今のテクノロジーでも楽しめるのですから。




いよいよ列車は、トロントへ!




日本に残してある旅のアルバムのトロント/ナイアガラのページです。カメラでそのページを撮ったものです。ブレンダさんと私がナイアガラの滝の見物のために黄色いレインコートを着ています。

このページのメモに残した記録を読んでみると、バンフ/ジャスパーからトロントまでは、やはり3泊4日かかっていました。しかも、途中で列車がレイルを間違えるというハプニングがあり、その分8時間もよけいに時間がかかってしまったようです。ジャスパーを出たのが、7月15日の午前10時50分、そしてトロント到着は、7月18日の午後4時のはずでした。でも、このハプンニングのため夜中に到着、そしてトロントからナイアガラまで行く列車に乗る事ができなくなった私たちは、VIA Rail Canadaの支払いでタクシーでナイアガラに向かったのでした。(これを読むまでこんなことなど、すっかり忘れていました!)


そのメモの記録の部分だけをアップしてみます。私の手書きが読めるでしょうか。



もう一枚、アルバムのページの写真があります。これは、ナイアガラの滝壺に、黄色のレインコートを着て見物したのと同じ日だと思います。滝のすぐ前には、レストランやおみやげの店がたくさんあって、世界中からの観光客で大変なにぎわいでした。でも、近くには、きれいで静かな公園などもあって、いいところでした。夜には、滝のライトアップがあり、近くをあるいていると霧がふっているのだと思うぐらい、滝のしぶきが降り注ぎました。






この写真は、ナイアガラの滝の目の前にある芝生で、ブレンダさんと二人でフリスビーをしていた時のものです。メモによると、素敵な警察官の青年が(!)フリスビーの仲間に入り、その夜の勤務終了後、ドライブに誘われたけれども、翌日の朝一番の列車でまたトロントへ向かうというスケジュールのため、そのドライブには行かなかったことが書かれてありました。なんだか、すごく懐かしくなってきました!そんなことがあったのでしたか!それにしても、Tシャツと思いっきり足を出している短いショーツ、白いソックスというファッション。。。時代も年代も今とは本当にちがっていることをヒシヒシと感じています。若かった!

ブレンダさんは、とても気さくでチャーミングな人でしたから、どこに行っても、他の人たちに親切にされたり、あるいは、男性に言い寄られたり、または、宿泊先のおばさんが自分の息子に会わせようとしたり、というようなことが度々ありました。

ブレンダさんとは、今でも友人同士。日本にも、ここニュージーランドにもご主人と共に会いにきてくれました。今は、BC州の高校の美術の先生で、娘さんもお一人います。


両親に送った絵はがきもこのアルバムに記録としてはってあります。それを読んでみると、宿泊したベッド&ブレックファストは、普通のお宅のようなところで、宿泊費は、なんと10ドルだけだったこと。

お世話になったベッド&ブレックファストのビジネスカード
ネットで検索してみると、このB&Bは、まだ健在のようです!朝食が大変おいしいとありますが、27年前もまさしくその通りでした。ブレンダさんが会うことになっていた息子さんは今どうしているのでしょうか。SHEMARA?。。。ちょっとルネの苗字のSHIMARD に似ている気が。。!




次に向かうのは、メノナイトと呼ばれる人たちが住む地域のキッチナー(Kitchener)、ウオータールー(Waterloo)、そしてシェイクスピア フェステイバル(Stratford Shakespeare Festival)で、有名だと言われているストラットフォード(Stratford)です。シェイクスピア フェステイバルでは、夏の間、ストラットフォードの街中のシアターで、シェイクスピア作の喜劇、悲劇の舞台をたくさん観劇できる催し物などが開かれます。ストラットフォードの後は、またトロントに戻り、オタワを経由してモントリオールへ。次回の記事では、モントリオールでのお話ができるでしょうか。。。また、スピードをあげていかなければいけませんね。



ところで、85年のルネは、どのような感じになっていたのでしょう。youtube で見て下さいね。この歌とステージ衣装は、後で、私には忘れられない特別な思い出となります。






最後に、「スーパーアイドル ルネ」(17ページ)からあと2枚。横山隆一氏の自宅の電車コレクションで遊ぶルネです。ルネの遊ぶ電車に乗って、ルネを電車の窓から見てみたい!と思ってしまうのは病気??




曖昧な記憶とわずかな自分の写真、そしてネットで見つけた資料を使っての思い出の1985年のモントリオールへの旅の記録ではありますが、読んでいただいてありがとうございます。モントリオールになかなか到着できませんが、楽しみに読んでいただけていたら幸いです。私も、思い出をよみがえらせる作業が楽しみになってきています。


riko auckland/nekonomimi