8.6.08

 七里ケ浜の哀歌/ルネの浅草訪問

日本から持ち帰ったルネの関するものの中に古いカセットテープがあります。中には、主にルネがテレビ出演したときに歌っていた曲、それからコマーシャルの唄などが録音されいます。日本に滞在中、特にその中の一曲について心をとらわれました。フランス語で歌っていますが、メロデイは日本調。悲しい感じのする曲です。今回は、この曲についてのことを書きながら、ルネの浅草訪問時の白黒画像も紹介いたします。画像の状態は、全く良くありませんが、それでも懐かしいルネの様子をみることができます。

  

浅草観音寺でのルネ
画像の周りの黄色の部分は、なんとセロテープ!
古くなりすぎて色があせてしまった結果です。
それにしても、セロテープでルネを貼ってしまうとは。。。!



寒い日本で風邪をひきながらも、両親との時間を楽しみました。両親とドライブ中の車の中で、このテープを聴き、ルネに関わる昔の懐かしい思い出話をしていましたが、そのとき、中学生だった私がこの唄をテープに録音していたときに、母親がこの曲について「この唄は、現実に起こった悲しいことを歌っている曲なのよ」と言った事を思い出していました。母親は、そのことをすっかり忘れてしまっていましたが、この曲が日本のものである事には同意。それから私がこちらに帰ってきてからも、母親と電話で話す機会がある時には、この曲のタイトルを二人でよく考えていました。

お祈りしているルネ


そして、このルネの曲と同じらしき曲をとうとう発見。そのメロデイも探して母親にも電話口でルネの唄とこの唄を聴き比べてもらいました。二人の意見はこの曲で一致!この曲のタイトルは、「七里ケ浜の哀歌」または、「真白き富士の嶺」として知られているものです。ルネがどの番組でどうしてこの唄を歌っていたのかは、未だに思い出せませんが、これはまさしくルネが歌っていたものなのです。


浅草観音の仲店通りでのルネ



「七里ケ浜の哀歌」(真白き冨士の嶺)について

母親も昔語っていた現実にあった悲しい話というのは、1910年(明治43年)1月23日、逗子開成高校のボートの転覆事故で亡くなった12人の生徒への哀悼歌として作られた曲です。

この曲のオリジナルは、あの「大草原の小さな家」の著者ローラインガルスワイルダーの親戚でもあるというアメリカの作曲家、ジェレミーインガルス(1764ー1828年)が刊行した白人霊歌集 「クリスチャン・ハーモニー (Christian Harmony)」の中で紹介していた
Love Divine」という曲です。

この歌が1890年(明治23年)に刊行された「明治唱歌」の中で「夢の外」としてあったものを「七里ケ浜の哀歌」としてアレンジしたのは、逗子開成高校の姉妹校、鎌倉高女の教師であった三角錫子。2月6日逗子開成高校の校庭で行われた追悼会でこの先生がオルガンを弾き、鎌倉高女の生徒がこの歌を合唱したそうです。



詳しくはこちらのサイトをどうぞ。

ウイキペデイア 真白き富士の嶺

今日の事あれこれと
(この曲についての記事を書かれているブログサイトです)

「真白き富士の嶺」映画

逗子開成高校

youtube真白き富士の嶺1

youtube真白き富士の嶺2



浅草観音と仲店通りへの入り口にある
有名な大きな提灯の下でのルネ





「七里ケ浜の哀歌」(真白き冨士の嶺)

作詞者 三角錫子  作曲者 ジェレミーインガルス



真白き富士の根、緑の江の島
仰ぎ見るも、今は涙
歸らぬ十二の雄々しきみたまに
捧げまつる、胸と心

ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら)
風も浪も小(ち)さ腕(かいな)に
力も尽き果て、呼ぶ名は父母
恨みは深し、七里ヶ浜辺

み雪は咽びぬ、風さえ騒ぎて
月も星も、影を潜め
みたまよ何処に迷いておわすか
歸れ早く、母の胸に

みそらにかがやく、朝日のみ光
暗(やみ)に沈む、親の心
黄金(こがね)も宝も、何にし集めん
神よ早く、我も召せよ。

雲間に昇りし、昨日の月影
今は見えぬ、人の姿
悲しさあまりて、寝られぬ枕に
響く波の、音も高し

帰らぬ浪路に、友呼ぶ千鳥に
我も恋し、失(う)せし人よ
尽きせぬ恨みに、泣くねは共々
今日も明日も、かくてとわに


ルネが歌っている 「七里ケ浜の哀歌」(真白き冨士の嶺)は、わずか、1分2秒という短さですが、ルネのファンのみなさまには、とても興味のある歌なのではないかと思います。グループサイトを通して、または、このサイトを通してみなさまにもお聴かせできるようにしたいと思っていますのでお楽しみに!


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