アンザックデーのANZACとは、Australia New Zealand Army Corpの略で、元々は、第一次世界大戦で、オーストラリアとニュージーランドの兵士が、イギリス軍の指揮のもとに戦ったガリポリの戦いで命を落とした兵士たちを追悼するものだったそうです。
赤いポピーは、第一次世界大戦後、カナダ人の軍医であったMcRaeが、今はベルギー、フランス、オランダに分割されているフランダースの戦場跡地に咲いたポピーの花を見ながら、そこで戦友を失った悲しみを綴った詩に由来しています。
私のパートナーの祖父は、第一次世界大戦でフランスの戦場、そして父親は、第二次大戦で技師としてイタリアに行っていました。今年も、赤いポピーを身近におこうと思います。
アンザックデーの赤いポピーとカナダ人の軍医が結びついていたことは、新しい発見でした。カナダー>ルネ!という考えが頭を巡り、またルネやカナダが愛おしくなってしまいます。
赤い線がバンクーバーからトロントまでの横断鉄道の路線 ナイアガラの滝まで行くには、トロントから電車を乗り換えて、約2時間の旅です。路線は、右側の水色です。
先週話していたナイアガラの滝のナイトアップは、まさしくこのような感じでした。どちらかと言うと派手な虹色のような。右上に見えるのは、もしかするとアメリカ側にわたることができる橋だったような記憶があります。
では、今週の「モントリオール1985年の夏休み」 その5をスタートしましょう。ナイアガラの滝からの話です。モントリオールまで行き着くでしょうか。。。!? ナイアガラを朝一番の電車に乗ってトロントへ。そしてトロントから電車を乗り換えて、キッチナー/ウオータールーまで行き、ストラットフォードに落ち着くところまでを書いていきます。
photo@subwaynut
ナイアガラの滝駅
ナイアガラの滝駅
ネットで探して使わせていただいているこの写真を見ても、この駅がこのようだったということを覚えていません。この駅は現在の駅のようですが、果たして85年も同じ駅だったのでしょうか。さて、ナイアガラの滝の駅を朝一番で出発とメモには、書いてありましたが、トロントまでは約2時間。どこにも降りずに(と行っても途中の駅は、2つぐらいしかないようです。)トロントへ向かい、そこで電車を乗り換えて、キッチナーとウオータールーに行ったと思います。トロントの街をなぜ観光しなかったのでしょうか?時間が無かった、それとも興味がなかった?うーん。。。どうしてなのか覚えていませんが、今考えてみると多分そのどちらも理由だったのだと思います。
現在のナイアガラ/トロント間の時刻表。夏だけは、一日に3回電車が走るとのこと。その他の期間は、2回のみ。朝一番ということは、午前6時21分発の電車ですね。こんなに早く行動できていたのでしょうか。(信じられません!)
キッチナー/ウオータールーに行きたかったのは、私で、ストラットフォードは、どちらかというとブレンダさんが行きたかった。それも、キッチナー/ウオータールー へ向かう電車の中で知り合った人からストラットフォードのシェイクスピアフェステイバルを勧められて、突然ストラットフォード行きを決めたのでした!今、考えれば、こういうことこそ旅の醍醐味だと思うのに、その頃の私は、「予定した通りに行動したい!」(早くモントリオールやケベックシテイへ行きたい!)という考え方をしていましたから、この決定に完全に「ムッ」としてしまったことを覚えています。ブレンダさん本人は、この決定が嬉しそうにニコニコしていましたけど。(いつもニコニコの人なんです。)
キッチナー/ウオータールーと言う地域には、メノナイトと 呼ばれる人たちが多く住んでいます。メノナイトの人たちは、自分たちの宗教の教えを守って暮らすために、現代的な物に頼らず(電気、自動車など)、なるべく自給自足をして、昔ながらの生活をしています。アメリカ映画「Witness/ウイットネス/証人」でアーミッシュと呼ばれる人たちの暮らしが描かれていましたが、アーミッシュは、メノナイトの宗派から分かれた人たちなので、メノナイトの暮らし方と良く似ています。私は、その映画、「証人」(主演はハリソンフォードだったかな。。)を見て以来とてもその暮らしに興味があったのです。昔、「大草原の小さな家」というアメリカのテレビドラマがありましたが、その暮らしにとても似ています。服装も!
BC州に住んでいた時、散歩する山道の高台にメノナイトの家族が住んでいて、話こそしませんでしたが、散歩に行くと、いつも手をふってくれたりしていました。ふつうは、車は使わないと聞いていましたが、この家族は現代的なのか、馬車のかわりに黒い車を使っていました。
現在のナイアガラ/トロント間の時刻表。夏だけは、一日に3回電車が走るとのこと。その他の期間は、2回のみ。朝一番ということは、午前6時21分発の電車ですね。こんなに早く行動できていたのでしょうか。(信じられません!)
キッチナー/ウオータールーに行きたかったのは、私で、ストラットフォードは、どちらかというとブレンダさんが行きたかった。それも、キッチナー/ウオータールー へ向かう電車の中で知り合った人からストラットフォードのシェイクスピアフェステイバルを勧められて、突然ストラットフォード行きを決めたのでした!今、考えれば、こういうことこそ旅の醍醐味だと思うのに、その頃の私は、「予定した通りに行動したい!」(早くモントリオールやケベックシテイへ行きたい!)という考え方をしていましたから、この決定に完全に「ムッ」としてしまったことを覚えています。ブレンダさん本人は、この決定が嬉しそうにニコニコしていましたけど。(いつもニコニコの人なんです。)
キッチナー/ウオータールーと言う地域には、メノナイトと 呼ばれる人たちが多く住んでいます。メノナイトの人たちは、自分たちの宗教の教えを守って暮らすために、現代的な物に頼らず(電気、自動車など)、なるべく自給自足をして、昔ながらの生活をしています。アメリカ映画「Witness/ウイットネス/証人」でアーミッシュと呼ばれる人たちの暮らしが描かれていましたが、アーミッシュは、メノナイトの宗派から分かれた人たちなので、メノナイトの暮らし方と良く似ています。私は、その映画、「証人」(主演はハリソンフォードだったかな。。)を見て以来とてもその暮らしに興味があったのです。昔、「大草原の小さな家」というアメリカのテレビドラマがありましたが、その暮らしにとても似ています。服装も!
BC州に住んでいた時、散歩する山道の高台にメノナイトの家族が住んでいて、話こそしませんでしたが、散歩に行くと、いつも手をふってくれたりしていました。ふつうは、車は使わないと聞いていましたが、この家族は現代的なのか、馬車のかわりに黒い車を使っていました。
キッチナー/ウオータールーでは、メノナイトの人の暮らしと、その人たちが作るキルトを見たいというのが希望でしたが、駅の近くのマーケットを見るだけで終わってしまいました。マーケットには、野菜など食べる物が主だったので、キルトを見る事はできませんでした。
photo@Not quite Marco Polo
メノナイトの人たちのマーケットは、こんな雰囲気でした。写真は、キッチナーの近くにあるセントジェイコブズの街のメノナイトのマーケット。
このようにみんなで時間をかけて作ったキルトですから、ベッドスプレッドなどは、1000ドル以上もするようです。これは、ウオータールーのメノナイトの人たち。
このようにみんなで時間をかけて作ったキルトですから、ベッドスプレッドなどは、1000ドル以上もするようです。これは、ウオータールーのメノナイトの人たち。
このようなキルトを見ることができたら素晴らしかったでしょうに!
ところで、ルネに関する話題もルネのレコード(この当時、cdは生まれていませんでした!レコードのみ)についても、トロント州であるナイアガラの滝周辺、そしてもちろんちょっと田舎のようになのどかなキッチナー/ウオータールー周辺でも、まったく情報はありませんでした。都会であるトロントの街では、どうだったのでしょうか。
後でわかることですが、首都であるオタワの街のレコード屋さんには、あったんですよ。この頃のルネの圧倒的に人気のあった曲は、Comment Ça Vaという曲。これは、前年の1984年に、ADISQ (Association du disque, de l'industrie du spectacle québécois et de la vidéo) という、ケベック州で活躍する歌手、芸能、映画などで活躍する人で構成される協会(1977年に創設)から、Félix Awardというレコード業界で活躍した人に贈られる賞を受賞しています。
1984年のADISQでFélix Awardを受賞した時のルネ
ですから、この曲のシングルレコードやアルバムなど、そして1985年に発売された Et tu danses avec lui, ナタリーとのデユエットでの Sur la plage (1984年発売)などは、 オタワの街のモールで見かける事ができました。感動!しました。。。が、オタワに行ったのは、モントリオール/ケベックシテイの後でしたから、ほとんどのレコードは、モントリオールですでに見て大きく感動していたのでした!
Comment Ça Va (youtube)
photo@ebay, sous le sunlight des tropiques@chantal hakase page
このビデオをアップしているマリエルさんももちろんfacebookにいますよ!
オタワの話や、モントリオール/ケベックシテイの話が少し入ってきたので、今までよりもなんだかドキドキしてまいりました!まだストラットフォードにも行き着いていないのに!
ストラットフォードは次回になってしまいます。この記事を終える前に、「大草原の小さな家」の話にまた戻ります。このドラマの中で、金髪のネリーという意地悪な女の子がいました。そのネリーの役をしていたAlison (アリソン)Arngrimとルネは、なんとつながりがあるのです。
これは、以前グーグルのグループサイトで「ルネの恋」というタイトルのページがあり、そこで紹介していましたが、そのページがもうなくなってしまっていますので、ここでちょっと紹介しておきましょう。
大草原の小さな家のネリーオルソン役をしていた時のアリソン
「ルネの恋」というのを読んで、もう「あっ!」と思われたと思うのですが、ルネが20才でアリソンが19才の時、ルネとアリソンは、恋人同士という関係があったそうです。この話には、いろいろと憶測がとりまいているのですが。
1975年、ルネが日本から去り、アメリカ進出を目指して、初めて英語とダンス、声楽のためにロサンジェルスに行っていたとき、お姉さんのリンとお世話になっていたのが、このアリソンの家でした。それは、アリソンの父親、Thor Arngrimがルネのロサンジェルスでのプロモーターだったからでした。
photo@passion rene nathalie et regis simard
ルネの横にいるのがアリソンです。
アリソンの父親で、ルネのアメリカでのプロモーター/エージェントだった Thor Arngrim
その縁があってかどうか、1981年、ルネが20才の頃、「ルネの新しい恋」などというタイトルの記事や二人の写真が出ていました。1970年の終わり頃から1980年にかけて、ルネには、もっと真剣におつきあいをしていた別の女性がいたようなので(この話は、また後でいたしましょう。)このアリソンとのおつきあいというのは、「なんだかなあ。。。」という気もいたしますが。
この「真剣なおつきあい」に関してルネから直接話しを聞いたというローラさんというグループのメンバーのお話では、この別の女性がいたし、アリソンとの恋は、ルネをアメリカで売り出すために使われたのではないかということですが。ローラさんは、カナダの英語圏に住むルネのファンですが、ルネがその地域で活躍していた頃、ルネととても仲良くなったファンの一人なのだそうです。
昔のこととはいえ、少し嫉妬?してしまいますが、ルネにだって恋をする自由はあるのですからね!そしてそのことをいろいろと話題にされてしまうことは、嫌な事だとおもいますが、記事になってしまっているので、私も少し気がとがめながらアリソンとルネのつながりを書きました。
photos@passion rene nathalie et regis simard
では、最後は、passion rene nathalie et regis simard のグループからのかわいらしい11才のルネの写真で終わります。次回こそ、ストラットフォードを早めに行き過ごし、モントリオールへ向かえますように!
riko auckland/nekonomiminoura/しゃむねこ
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