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8.6.14

ルネのタイムライン/ルネの家族のパロデイドラマ


今回の記事は、ルネがこれまで歩んできた道のりの「タイムライン」です。記事の前に、ルネが昨年司会を務めた 第28回 Gala des Prix Gémeaux受賞式の番組で披露されたルネファミリー のパロデイビデオを紹介いたします。ルネの家族が実際にはどんな人たちなのか、様子なのかをパロディ化したものです。もちろん本当のルネの家族は、このパ ロディ化したような人たちではありませんが、実際とは全くちがう様子を面白く描いています。それぞれが問題を持っているという内容なのですが、ルネがそん なことには気がつかず、あるいは、気がつかない振りをして、できるだけ明るく楽しく家族と過ごそうと務めます。



ルネファミリーのパロディドラマ
Le bonheur est dans le pouding
「シアワセは、プデイングの中に」
youtubeのビデオリンクは、ドラマのあらすじの後に紹介してあります。

プデイングというのは、このビデオの最後の方に登場するぶた(けれどもルネは犬だと妄想?)の名前であり、ルネがデビュー当時していた仕事の一つに、ローラセコードというお菓子の会社のプデングを宣伝がありました。「ちっちゃなシマール(ルネ)を歌わさせるものは何?(プデングなんだよ)」という歌と一緒にルネのこともこのプデイングのことも大人気にさせたコマーシャルだったので、使われているのかなと思います。このプデイングが本当にルネの家で飼われている犬なのかどうかは分かりません。


 
ローラセコードのプデイングのコマーシャルその1
ルネ、兄レジス、弟ジャンロジャー、妹ナタリーが登場します。牛舎でミルクをしぼって家に運ぶ姿がとても可愛らしいです。



プデングについて:プデングを日本のプリンと一緒の物と思いがちですが、それはちがいます。プデイングと聞いて、一般的に想像するのは、食後のデザートのちょっとべたべたしたような甘いもの。それはケーキやパイを生クリームやアイスクリームと一緒にして食べるからなのでしょう。ルネが宣伝していたローラセコードのプデングは、ちょっとドロドロしたものでスプーンですくって食べるような感じもの。溶けたチョコレートと少しの小麦粉を混ぜたようなものだと想像します。



ローラセコードのプデングのコマーシャルその2
キッチンのテーブルで模型電車で遊ぶルネ、兄のレジス、兄のマルタン、妹のナタリー。


フェイスブックの日本のルネファンの間でこのビデオの話題になり、特にルネが家族の関心を引こうとテーブルで日本のことについて話す場面がありますが、そこでルネが話していることをどうしても知りたいということになりました。それで、ケベックのファン、パトリシアさんが英語に訳してくれました。その部分を入れながら、このビデオのあらすじを書きます。

あらすじ:
奥さんのマリージョセが帰宅、カツラを取り、入れ歯やコルセットを外して、すごい状態になっているにも関わらずルネは、ボクの美しい奥さん!と言ってうっとり。息子のオリビエ は、ウデを入れ墨だらけにして、ゲームに夢中、娘のロザリーは、警察に補導されて帰宅なのに、二人ともいい子供達だと考えているルネ。自分のことは、デビュー当時と変わらないと思っている姿を鏡に映し、デビュー曲の「鳥」を歌ったりしている。そんな家族が集まるテーブルで、「今日はどうだったの?どんな日だったか話してよ。」と嬉しそうに聞くのですが、だれも応答しようとはしません。そこでルネが、「じゃあ、ボクの話から始めるね」と言って話しをスタート。その話が、日本でのことになります。

*****

facebookでのパトリシアさんの英語での説明、そしてその日本語訳

English: So, talk to me about your day
(No answer from family )
ルネ:えーと、みんな、今日はどんな日だったの?僕に話してよ。
(家族からの返事は全くなし)

Ok, I will start then. I will talk about my day. My day of October 14 1974
in Japan. Oh it was my first visit to Japan (René goes on and on about his adventures but we cannot make out what he's saying because of music background and the rest gives an impression that the family is not paying any attention to what he's saying lol ! )

ルネ:そうか。。。じゃあ、僕から話すね。僕が話す日は。。1974年の10月14日(ルネは完全に間違っていますけど。。笑 正しくは6月30日)の日本でのことだ。日本に行くのは生まれて初めてだったんだけど。。。(ルネはどんどん続けて話していますが、音楽がうるさすぎてよく聴こえません。家族は相変わらずルネの話に興味を示さない状況が続きます)

.....Oh I sang a song called Midori Iro Yo Yane and POW ! First prize !
And who do you think gave me my first prize ? ( Marie answers with a huge burp)..... almost, Frank Sinatra ! (door bell rings and it's Mother-in-law)

ルネ:あああ、そうだ。僕はね、ミドリ色の屋根という歌を歌ったんだよ。そして、ああああーすごいんだよ、だってグランプリを獲得したんだから!それでその賞を手渡してくれたのは一体だれだったか分かる?(マリージョセがおおきくゲップをする)。。。それはね。。。フランクシナトラだったんだよ!(この時ドアのベルが鳴って、マリージョセのお母さんが入って来ました。)

以上です。パトリシアさん、ありがとうございました! merci beaucoup, Patricia!

*****


ルネの話を誰も聞かず、一生懸命話しているルネをみて家族は、うんざり。ゲップをしたり、携帯をいじったり。そんなところに、マリージョセのお母さんが登場。バックに入れてたくさんの洋服のお土産を持って来てくれたとルネは考えるのですが、実際には、万引きしてきた品物。そして警察にも捕まったことがあるほどの常習犯。その義母のクローデットがなんとぶた(犬?)のプデイングを丸焼きに料理してしまいます。。。
それでは、そのパロデイビデオを観てみましょう。


ルネファミリーのパロディドラマ
Les Simard - Taillefer Le bonheur est dans le pouding
「シアワセは、プデイングの中に」youtube




ルネのタイムライン/バイオグラフィーについて


ルネが日本で活動している時代には、ルネが同時にフランスでも活動をしていたこと、そしてまた全米進出を目指しての英語やダンス、歌のレッスンをロサンゼルスでしていたことなど。。それからルネシマールショー、スーパーキッドというルネの特番など、今ひとつ、このような仕事をどのような順番でして行ったのかというのが、よくわからないという感じでした。ルネのバイオグラフィーは、いろいろな方が書かれているようですが、それぞれに違うようです。その中で、特に詳しく書かれているものがいくつかありますが、今回はそのうちの一つ、QUEBEC INFO MUSIC COMというサイトのルネのバイオグラフィーを参考にして、ルネの2004年までの道のりをもっとシンプルなタイムラインとして見て行きたいと思います。このサイトに書かれてあることをタイムラインになおしているので、年代などのミスがあるかもしれませんが、気がついたもの以外は、そのまま同じものを記します。タイムラインは、2004年から現在までのものを、ケベックのルネファンの協力とこの他のバイオグラフィーなどを参考にしてアップデイトして行きたいと思います。

*このサイトの情報以外で、大切なものと思われるものを少しだけ、付け足しとして書き加えています。



ルネシマール タイムライン 2004年まで
ver 1 バージョン1based on Quebec Info Music Info Com

1961年2月28日
ケベック州サグネ、チクテイミに生まれる。*生まれた時刻は、午前3時33分。(ref: バチョー姉妹の書いたルネとナタリーの本より)

1969年
6才の時に、ケベック市、オルレアン島に引っ越し、そこで育つ。



1970年
CFCM Quebecテレビ局の番組「ジャンロジャーの発見」という勝ち抜き歌のコンテストに出場。優勝する。

gcがルネのマネージャーとしての契約が成立し、「鳥」という歌のレコードを発売。175,000枚を売り上げる。

12月5日より: モントリオールのplaces des artsで3回のコンサートを開く。

1971年
モントリオールに引っ越す。ケベック州内のコンサートツアーを実施。

1972年
兄のレジスと共に数多くのパフォーマンスを行い、テレビでの特別番組も放映される。

6月
:「今年最も活躍した/目立ったアーテイスト、その活躍」を対象とした2つのトロフィーMeritas をthe Gala des Artistesより受賞。トロフィーのタイトルは、"Decouverte de l'annee"と"Phenomene de l'annee"

この人気は、「何が小さなシマールを歌わせるの?(それは、ローラセコードのプデイングなんだよ)」というキャプションのついた、ローラセコードのプデイングのコマーシャルをすることで更に絶大なものとなる。

ルネ自身のことを描いた「普通の子供」というドキュメンタリー映画に出演後、ケベックコロシアムでコンサートに3万人、the place des montreal のコンサートには、6万人、Hullでは、4万3千人を集める。

1973年
4月、「ボクの旅」という映画でドミニクミッシェル、jean lefebvre、兄のレジスと共演し、この映画のアルバムにおさめられた曲でコンサートツアーを行う。

1974年
6月: 日本の第三回東京音楽祭にカナダ代表として出場、「ミドリ色の屋根」を歌い、グランプリと特別ゲストのフランクシナトラ賞を受賞。6百万枚のレコード売り上げを記録。

12月
: パリのオリンピア劇場でDaniel Guichardのステージの前半のステージに登場、またMichel DruckerやPhilippe Bouvardのテレビ番組にも出演する。

「普通の子供」(73)、「パスカル」(73)、「日曜の午後」(74)、「ママ、今夜出かけさせてよ」(75)などのレコードがゴールドデイスクを受賞。

アメリカNBCネットワークの「マイクダグラスショー」に出演。

1975年
1月: カンヌのMIDEM の閉会式で歌を披露。日本でのコンサートツアーの実施。

1976年
5月: アメリカCBCネットワークのMerv Griffin Show、NBCネットワークのHoward Cassell showなどに出演。アメリカで放映された特別番組、Fair Weather Friendsに出演。モントリオールフォーラムで開催されたボブホープとビングクロスビーによるモントリオールオリンピックのためのショー、「ボブホープスペシャル」に出演。

オリンピックテーマ曲の「ウエルカムツーモントリオール」を歌う歌手に選ばれる。

CBCネットワークのルネの特別番組、「スーパーキッド」に出演。

FERNANDOヒットチャート入り

1977年
「スーパーキッド」に出演中、リベラーチェの1977年のアメリカコンサートツアーへの出演を求められ、ツアーに同行。

このツアーから戻り、「ルネシマールショー」(1977−79)の番組のホストを務め始める。この番組は、30分のウイークリーバラエテイショーで、バンクーバーで撮影され、最優秀バラエテイ番組として、ACTRA賞を受賞。

9才の妹ナタリーとユニセフのキャンペーンソングとして Tous les Enfants du Mondeを歌う。

YOU'RE MY EVERYTHINGがヒットチャート入り


1980年
*妹のナタリーとPLACES DES ARTSでのコンサート。
カリフォルニアとフロリダでのデイズニーランドとデイズニーランドを会場にしての2つテレビ番組を放映。

1981年
THE GREAT RETRO ツアーに参加する。ロサンゼルスに数ヶ月暮らす。

1982年
妹のナタリーとPLACE DES ARTSでのコンサート。

*第12回東京音楽祭特別ゲスト/プレゼンターとして、日本でのレコードデビューをするナタリーと来日。

妹のナタリーといくつかのレコードを制作。

1984年
COMMENT CA VAでのシングルレコードの最高売り上げで、FELIX賞受賞
RSVP(VAT 1984-87)バラエテイショーの番組でのホスト。


1985年
妹のナタリーとPLACE DES ARTSでのコンサート。

1986年
「あの人は今」的なテレビ番組出演のために来日。

1987年:
*8月8日:タレント、女優の Marie-Josee Taillierと結婚


1988−90年
LASER 33-45(CBC)の番組

1988年
妹ナタリーとのデエットのプロモーションビデオで(VIDEO OF THE YEAR) FELIX賞受賞、シングルレコードのベストセリングでの賞受賞(TURN THE PAGE)

1989年
「キャサリン」チャート入り


1990年
年末恒例のパロデイ番組のBYE BYEに出演

1991年 :
BYE BYEへ出演。
ADISQでの司会

1992年
BYE BYEへ出演。
ADISQでの司会


1993年
アルバムE=MC2 をリリース。

トロントのドラマスクールに通う。その後、joseph and the amazing technicolor dream coatのリード役をもらう。andrew Lloyd webberのミュージカルに出演。しかしプロダクションは破産。

1996年
7月に大洪水の災害にあったサグネのために、妹のナタリーと兄のレジスと共に、30年前にシンガーソングライターのpaul davisによって作られ、大ヒットしたmon villageという歌を2曲違ったバージョンにして歌ったcdをリリース。

この年の秋に、ミュージュカルJeanne la pucelle(ジャンヌダルク)を Judith Berardと共演する。places des artsのmaisonneuveにて公演。

1999年
4月:トロントでのthe phantom of the opera(オペラ座の怪人)の主演を勝ち取る。

この年の秋、sky-fmのall the world upラジオ番組のホストをする。

2001年
夏、フランスとケベックのコメディアンたちと共演したcyclone ショーが人気となる。

2002年
ケベック市のキャピトルシアターで公演されたGENERATION MOTOWNのプロダクションのデイレクターとしてミュージカルに復帰。この後、毎年同じようなミュージカルプロダクションの制作をする。

2003年
10年ぶりに歌手としてのアルバム「昨日をもう一度」を秋にリリース。
ジャジーなフランスとケベックのスタンダードナンバーを13曲収録。セリーヌデイオン、JEAN PIERRE FERLANDがこのアルバムに参加。

20004年
冬、キャピトルシアターで「ダリダの生涯」を公演。










 

18.4.14

ルネの全米進出の計画と二人のマネージャー その1

前回は、3月の初めに発売されたケベックの雑誌のルネの記事についてでした。そこでルネが話していたことは、これまでのこと、現在のこと、そして将来のこ とでした。読み終えて感じたことは、ルネが今とてもいい人生を送っているということ。53才になり、自分のしたいこと、したくないことが分かり、したいと 思う仕事も選択もできる。スポットライトを浴びることよりも、カメラの裏側での仕事を楽しみ、大切な家族と穏やかに暮らしているのだということでした。そ んなルネの様子を垣間みることができる話を発見しました。記事の話を続ける前にちょっと寄り道です。


これは、昨年の9月9日に出演したテレビのトークショー'Alors on Jase!'からのルネです。ここでルネは、お天気のことや、自分の好きな植物の世話のことなどを話したそうです。ルネが話題にした好きな植物とは、「エンジェルストランペット」これは、「キダチチョウセンアサガオ」属「ナス」科のひとつだそうです。「エンジェルストランペット」というのは、園芸名。花言葉は、愛敬、偽りの魅力、変装、愛嬌。「愛敬、愛嬌」などは、 ルネにぴったりな言葉ですね。ニュージーランドでもこの植物が野生としていたるところで見られます。毒性があるので注意が必要なんですけど!ルネは、どのようにこの植物を扱っているのか気になります。番組では、どのようなことを話したのかも。



ALORS ON JASE! の番組からのルネ




「エンジェルストランペット」

これが、「エンジェルストランペット」 ルネの夢/希望の一つは、大きなグリーンハウスを作ることと言うぐらいルネは、植物を育てるのが大好きとのこと。自宅 にいる時には太陽の光を植物に浴びさせるためにしょっちゅう植物の鉢を移動させるほどだそうです。ケベックのファンのお話では、現在ルネはすでにグリーン ハウスを持っているらしいです。


そ れでは、記事についての話にまた戻ります。ケベックのファンの何人かと、この記事をどう思ったか聞いたところ、Rene is in peace. (ルネは、今とても穏やかだ、穏やかに人生を過ごしているのだ)と言っていたのがとても心に残ります。それは、私にとっても、facebookの日本のル ネファンの間でも同じく感じたことでした。そしてそのケベックのファンは、ルネの言っていることを読んでいて、自分のこれまでとこれからの人生のことにつ いて考えた時、とても励まされるということでした。自分自身に対して失った自信をもう一度取り戻せるように思うと。


現 在のルネの人生哲学と思えるような言葉がありました。「人生には、永遠に続くものというものはない、それゆえに今の瞬間を楽しむべき」だから過去の事に拘る なと。このような考えが出来上がったのは、ルネが10才でデビュー、大変成功し、大きな人気があったのにテーンエイジャーになるとあっという間に消え てしまったという経験をしているからだと書かれていました。


テーンエイジャー時代のルネ。そのルネには、今も人一倍の興味を持ち続けています。あの頃、そのルネの活躍をどれほど知りたいと思い、想像していたことでしょう。今では、ルネがその頃何をどのようにしていたのかをネットによって知ることができますが、その当時のルネのことは、日本に残された私たちファンにはほとんど伝わって来ませんでした。知ることができたことは、アルファレコードが作っていたルネのファンクラブ、メープルメイツからの会報や新聞などでアメリカ進出をするためロサンゼルスで英語やダンスのレッスンにがんばっているルネの話題や、まだ あのなつかしいおかっぱのヘアスタイルをしているけれども、幾分身長が伸びた20世紀フォックス社の前で撮られたルネの画像がありました。そして最後の会誌となった総集編では、髪の毛を短くしたルネの姿があり、ほんとうにびっくりというより嬉しい大ショック!を感じました。では、そのメープルメイツの会誌 No.4の懐かしいルネの画像を見て行きましょう。(source: maple mates no.4 my own)



 表紙の見開きページのルネ
うーん、とっても大人っぽい感じです。


「ルネが契約している20世紀フォックス社の前で」

と書かれています。the Montreal Gazetteの1976年4月10日付けの記事でこの契約の話が書かれています。それによるとルネは、20世紀フォックス社と2年間の契約を結んだそうです。この記事では、映画のためとありますが、Eugene Regiser-Guardの1975年12月28日の記事の中では、特別なテレビ番組(トークショーなど)のために2年の契約を結んだとあります。



身長もとても伸びた感じですね。



「全米放映!!TV番組 ”MERF GRIFFIN"でのスナップ」

The Merf Griffin Show は、20世紀フォックス社で制作されていたトークショー。ルネは、この番組に1977年4月19日にゲスト出演しています。画像はこの時のものではなくて、たぶん1976年の5月のショーだと思います。「20世紀フォックス社との契約は、1976年5月から1978年の5月まで」でした。(source:p75 Rene Simard signe avec 20th Century Fox, Rene Simard Magazine)


ファンクラブがまったく 停止した後は、何も分からないという状況。有志が集まってルネのファンクラブを自分たちで始めたけれど、集められた情報はそれほど多くありませんでした。少し後で、ルネの英語の曲が混じったアルバム、'Fernando' (1976)と初めての英語だけの曲で制作された‘Never know the reason why’(1977)から録音したカセットテープをを東京音楽祭の事務局の関係者で個人的にルネが好きで、この二つのレコードをもっていた方から手に入れて、大興奮! 変声期を迎え不思議だけれど魅力的なルネの声、それでもとても懐かしく胸がジーンとしました。そして、ルネが英語の歌を歌っている、そしてフランス語ではないので、すぐに歌詞の内容が分かるという嬉しさもあり、何度も聴いて、ルネを想い涙をこぼしていました。そのテープをみんなで回し合って感激をシェアしていたものです。突然引き離され(というような気分で)、その後まもなくテイーンエイジャーに成長していたルネの様子をほとんど何も分からずにいた日本のルネファンにとって、このあたりの時期は、暗闇の中、一番悲しい時だったのではないかと思います。


source: メープルメイツ会誌/総集編(my own)


最後に送られて来たメープルメイツの「総集編」としての会誌の最初の見開きに登場したルネは、もうあのおかっぱ頭のルネではありませんでした。



source:the boy choir & soloist directory

Fernando(1976) 画像は、96年のデビュー25周年に作られたcd版



ルネの初めての英語だけのアルバム 'never know the reason why'(1977)


前 置きが長くなりつつありますが、そういうわけでテーンエイジャーの頃のルネに本当はどんなことが起こっていたのかということが、あの頃の私の頭の中でいつも渦を巻いていたわけでし た。それは、40年(!)を過ぎた今でも同じです。「どうしてもちゃんと知りたい!」という強い気持ち。現在はそのことについてネット検索ですぐに様々な情報が分かるようになりました。けれども今回 は、ある一冊の本に書かれていることをたどり、その本の角度からルネにあの頃何が起きていたかを見て行きたいと思います。もちろん、そこに書かれているこ とが信頼性のあるものなのかどうかは、わかりませんが、この本の内容についてずっと考えていた私には、まるきり嘘でもないと思う内容に思え、興味を持っていまし た。とくに興味を惹かれたのは、ルネの周りに存在していた人たち、その頃のルネにとってはいなくてははならない二人がどんな人たちだったのかということも 書かれていたからです。


この二人というのは、ルネの元のマネージャーのギイクルテイ (Guy Cloutier、以下gcと記述)、そしてgcの元で、ルネのサブマネージャー的な存在として仕事をしていたルネアンジェリル(René Angélil)。ご承知だと思いますが、ルネアンジェリル(以下、アンジェリルと記述)は、ルネとの仕事の数年後、セリーヌデイオンのマネージャーとなり、セリーヌデイオンをスーパースターに育て上げ、後に彼女と結婚。二人の間には、3人の子供たちもおり、今もマネージャーとして彼女のために仕事をしている人です。



気になっていた本というのは、'René Angélil: The Making of Celine Dion: The Unauthorised Biography' 著者は、Jean Beaunoyer とJean Beaulne.  Jean Beaunoyerは、作家、ジャーナリスト、そしてJean Beaulneは、アンジェリルと12年もの間、the Baronetsという3人組のグループで一緒に歌をうたって仕事をしていた人です。その親しい間柄ゆえにルネと会う以前のアンジェリルについて、セリーヌデイオンに出会い、彼女を世界的なアーテイストに育て上げた過程について知っていることを元に、アンジェリルについて、ジャーナリストである Jean Beaunoyerと共に書き上げた本のようです。ただし、the unauthorised biographyとあるように、ルネアンジェリル本人のお墨付きまたは、頼まれて書いたバイオグラフィーではありません。



Les Baronets - Je suis fou

The Baronets時代のアンジェリルは、向かって左。右端にいるのが、著者のJean Beauln。


すでに上記していますが、この本から私の興味を引いたのは2つのことです。1つ目は、全米進出の話がどのように始まったのか、そして終わりを告げたのか。2つ目は、その全米進出にも強く関わっていた二人の人物であるアンジェリルとgcについてのこと。二人は、ルネと関わりを持つ以前はどういった人たちだったのか、そしてその二人がルネと出会った頃のこと。gcは、ルネのマネージメントを始める以前の時代、the Baroneteのメンバーたちのところに出入りしていたそうで、メンバーの家に泊ったりさせてもらったりしていたそうなので、gcについてもよく知っていたようです。この本は、著作物ですので、本の内容を翻訳してその内容を考えるのではなく、私がすでに読んでいる内容を元にこの本のレビューとして、そしてそれを私がどう思ったかという視点で書いて行きたいと思います。


source: Rene Simard magazine (my own)

フランクシナトラからシナトラ賞のトロフィーをもらうルネ

その1の今回は、ルネの全米進出の話がどのように始まり、どうして終わってしまったかということについて見ていきます。

 "Guy, it's now or never' 
「今やらなければ、もうチャンスはないんだ」

この話が書いてあるのは、セクション28に出てくる'Guy Cloutier'(以下gcと記述)の中。gcとアンジェリルが「ルネを全米デビューさせようという夢」を持ったのは、やはり第3回東京音楽祭世界大会でのグランプリとフランクシナトラ賞を獲得し、一躍日本でのレコードヒットと人気を得たことがきっかけでした。そしてフランクシナトラでさえルネに夢中というようなルネへの大きな期待感をgcとルネアンジェリルが持ったからでした。話を進めていったのは、gcよりもルネアンジェリル。以前から、アンジェリルは、ケベック州では、絶大な人気のあったルネをなんとかアメリカやカナダの英語圏でも売り出そうとgcに持ちかけていたようです。東京音楽祭での成功を、またとないチャンス!と考えたのはムリもないことです。アンジェリルには、the Baronetsの元のマネージャーがアーテイストを全米進出に成功させたスタイルを真似て、ルネのマネージメントをしたいという気持ちがあったようです。その一番の考え方のポイントは、「大きく考える」「アーテイストの才能について決して遠慮して話してはいけない」の2つだったようです。アンジェリルは、gcにこう言います。


 ”Guy, it's now or never". " We've got to think big! Even Sinatra is crazy about Rene. We've go to try the states right away.  The kid is hot everywhere!"
(ref: p120 'René Angélil: The Making of Celine Dion: The Unauthorised Biography')

訳:「gc、今やらなければもうチャンスはないんだ。僕たちは大きなことを考えなくちゃ!シナトラでさえルネに夢中なんだ。全米を今すぐに狙おう。 あの子(ルネ)は、どこでも人気者になれるんだ!」


source: スーパーアイドルルネ(my own)

東京音楽祭受賞直後。アンジェリルは、カジュアルな水色の上下の人


マネージャーの二人の喜びと期待は、大きなものだったと思いますが、今こうして読んでみると、二人は、雲にでも乗っているような気持ち、足が地に着かない、あるいは少し有頂天な気持ちになっていたのかもしれません。ほんとにルネを全米デビューさせて成功させるのが可能だと思っていたのでしょう。もちろん、私もルネにはそれだけの才能とチャンスがあったと思います。けれども、本に書かれてあることを読んでいて、二人の当時の姿を思い描いた私の感想は、ルネを大きく育て上げ成功させることは、二人にとってお金を儲けたいということでもあったのだという当然のことも再認識させられました。特にルネに出会うまでの二人の境遇を読んだ後では、成功が収入になる、また自身の名誉になるというその大きな夢や期待感が並々ならないものであっただろうという印象を持ちました。



source:Rene Simard magazine (my own)

東京音楽祭受賞後の夕食会。アンジェリルは右端の上にいます。


全米デビューのために、東京音楽祭からケベックに戻って2人が先ずしたことは、アメリカの雑誌' Time' のジャーナリストにルネがケベックでビートルズやエルビスプレスリーのレコード売り上げを合わせたよりも多くのレコードを売り上げたこと、つまりルネはビートルズやエルビスプレスリーよりも人気があるという話しをしたことだったそうです。この本によると、これは、数週間だけの事実にすぎなかったそうですが、アンジェリルとしては、その部分は省いてしまったのでしょう。


ビートルズとエルビスプレスリーよりも人気があるということ、そして東京音楽祭でシナトラ賞を獲得したので、シナトラがルネの後見人であるという2つの触れ込みで、ルネは、全米に将来が期待されたシンガーとして宣伝されて行くことになったようです。ただし、シナトラがルネの後見人として触れ込んだことについて「ルネにトロフィーを渡しただけのこと」と 著者が言っていることが気になります。シナトラ賞をルネに送ろうと思ったのは、シナトラ自身だったとは思いますが、音楽祭の後、シナトラがルネのアメリカ進出のために何かをしてくれたという事実は、当時の日本の雑誌の記事でわずかに触れられている以外に、私が今まで読んできた英語またはフランス語の記録としては見当たりません。シナトラの名前は、ルネのステータスを上げるために使われたように思えます。このビートルズとプレスリーよりも人気、シナトラにも見込まれたという話は、'time'  や'wall street journal' だけではなく、後になってもルネのプロフィールを紹介する雑誌や新聞記事ではかならずと言っていいほど繰り返されています。


このようなアンジェリルの話の様子を見られるのが、Million Dollar Babyというビデオです。ルネが東京音楽祭でグランプリとシナトラ賞を獲得する様子からスタート、それからルネがカナダ全体では知られていないけれど、フランス語圏であるケベックでのレコードの売り上げと人気のすごさ、そして日本での人気について話しています。


またgcとアンジェリルがルネとの出会いとルネの才能について話している姿も見られます。ご想像どおり英語でよく話しているのがルネアンジェリル。全米進出に向けての意気込みのようなものがとくにアンジェリルからはとても感じられます。英語が苦手なgcは、ほとんど話すチャンスがなく、隣に座って話を聞いているという様子です。


ルネとgcとの出会いは、このインタビューの中で、gcの結婚式で聖歌隊としてルネが歌っていた時だったという話をしています。これは、ルネのデビューまでを描いたドキュメンタリー映画「普通の子供」の中でも紹介され、日本で発売された「スーパーアイドルルネシマール」の記事の中でも、またその他の雑誌でもよく使われていたエピソードでしたが、その真相は、gcやルネアンジェリルの考えによって作られた話だったのかもしれないとよく考えていましたが、この本の中では、ルネとgcとの出会いは、ルネが「ジャンロジャーの発見」という(1年に渡って3段階に分けられ、3曲の歌を唄って行くという勝ち抜きの)歌のコンテストに出場していた時であったことだけが記述されています。ルネは、その時9才、すでにケベック中のお母さん達の間で人気が出ていたそうです。


パート2では、アンジェリルがルネの人間性についてほめている姿勢がとてもすばらしいと思います。そして英語の勉強を開始してからたったの3ヶ月しか経っていないルネの可愛らしい英語でのインタビューは、何度観ても微笑んでしまうのです。



さて、では次にアメリカの雑誌'time'に掲載された「東京音楽祭でグランプリ、フランクシナトラ賞獲得、ケベックでは、ビートルズやエルビスよりもすごい人気でレコードの売り上げも上」というルネの記事は、その後ルネのアメリカ進出にどのような影響を与え、ルネにはどんなことが起こりはじめていたかを見ていきましょう。


セリーヌデイオン認定の彼女のバイオグラフィー本'Celine: the authorised biography of Celine Dion' (written by Georges-Hebert Germain )に以下のようなことが書かれてあります。
'Time'に話したというこの内容は、ウオールストリートジャーナル誌  のフロントページでも紹介され、その翌週にはその記事を見た、Mike Douglas Showの関係者が連絡を取って来たことから、ルネは、この番組、そして他にもいくつかのバラエテイショーに出演することになります。そしてそのような様子をみたCBSレコー ドもルネに関心を持つことになったわけです。(ref: chapter 7, Celine: the authorised biography of Celine Diion)


source:Rene Simard magazine (my own)

Mike Douglas Showに出演したルネ。Mike Douglasは、ルネが東京音楽祭で受賞したということで着物を羽織ってトークを進めました。


René Simard - Mike Douglas Show 1975

ローラさんがアップした「マイクダグラスショー」の様子。音声のみですが、この時のルネとの会話とルネの歌が楽しめます。


「夢や期待は大きく持て! ルネの才能を高く評価して売り込め!」というような考えを持つアンジェリル(とgc)は、ニューヨークに行って、ルネに関心を持ち始めていた CBSレコードインターナショナル と契約を結ぼうとしました。CBSの代表者とミーテイングの約束を取り付け、ニューヨーク市内の高級で品の高いTwenty-One Club ( レストラン)での話し合いが実現。(chap7 Celine)アンジェリルの希望で、その契約の話し合いに雇われたルネ側の弁護士は、ビートルズのニューヨークでの弁護士 Walter Hafordという人だったそうです。(p120 Rene Angelil: Making Celine Dion)  この場でも話をしていたのは英語が流暢だったアンジェリル。そして高額な契約料を請求することでルネの価値をCBSに印象づけられると考え、一億円以下では契約をしないと言い切った。。。CBS側は、契約を検討すると言い残してレストランを出たそうですが、結局はその後CBS側からはなんの返事もなく、ビートルズの弁護士であるHaford自身や、gcとアンジェリルが何度も電話しても返事がなかったという結果に終わり、契約を結ぶのはついに失敗ということに。


アメリカでは無名だったルネに対して、一億円以下では契約を結ばないという姿勢は、世界的な多くのアーテイストと契約があり、仕事のやり方も洗練されていたCBS側にとっては、いかに無茶苦茶で馬鹿げた話であり、そのような状況を理解していなかったアンジェリルとgcは、マネージャーとしての能力と判断に欠けていたのだと本の中で厳しく批判しています。(p121 Rene Angelil: Making Celine Dion/ chap7 Celine:the authorised biography of celine dion)


 source:Rene Simard magazine (my own)

この十代のルネに会いたかったと思わせる一枚!


「この契約が失敗に終わったことで、ルネの全米進出の夢の可能性は消えてしまった。ルネが国際的なスター、パフォーマーとしてその人生を生きるチャンスは終わってしまった。けれども、(マネージャーたちの二人が)CBSに対してもっと適切なアプローチで契約を結び、またアメリカ的なやり方、売り出し方、国際的なマーケットについての理解がもっとできていたら、ルネは全米やもっと国際的な舞台で活躍ができたことだろう。」ともこの本の著者  Jean Beaulnは、言っています。(p120 Rene Angelil: Making Celine Dion)  また、先出のもう一つの本、Celine the authorised biographyの著者も、同じようなことを書いています。


RENÉ SIMARD -THE RENE SIMARD SHOW 1978

マ リエルさんがアップしている1975年から78年ぐらいまでのルネのいろいろな英語でのショーの様子が集まられているビデオ。78年の the Rene Simard showは、カナダのバンクーバーで収録が行われたカナダの英語圏へ向けてのルネがホストをするバラエテイショーでした。ルネの英語がとても可愛らしい し、テーンエイジャールネがホットに飛んだり跳ねたりと活躍中!最後の場面でルネが英語をうまく言えなかった時には、「あれえ、ガムが歯に挟まっちゃった!」という誰でも分かる演技をして笑わせています。カワイイ。。。!

CBSとの契約ができなかった後でも、gcとアンジェリルはなんとかルネをアメリカで売り出そうと、英語でのアルバム 'Never know the reason why' (1977) を自分たちのお金と力だけで制作しましたが、売れ行きはまったく だったそうです(ref:chap 7, Celine the authorised biography)


その他には、「世界が恋したピアニスト」と呼ばれたアメリカのピアニスト、エンターテイナーのLiberace(リベラーチェ)のラスベガスのステージやコンサートツアーに出演したりしました。ステージは、1977年2月ぐらいのことだったようです。(Daytona Beach Morning Journal Feb 12 1977)   昨年、Liberaceの人生がマイケルダグラスとマットデイモンの主演でアメリカのテレビ映画 'Behind the Candelabra' で放映になりました。日本でのこの映画のタイトル名は「恋するリベラーチェ」。


リベラーチェとルネ
source: Album EV Photos: la vie en images de Rene Simard (my own)

「1976年のテレビ番組に出演しているルネを観たリベラーチェは、ルネに自分のステージツアーに同行して出演してほしいと依頼した」と書かれています。なるほど!それで二人が出会ってステージで共演することになったのですね。



source: Rene Simard magazine (my own)


         ラスベガスのヒルトンでのステージのサインの前のルネ。
  ルネの名前が見えます。


source:Rene Simard magazine

ラスベガスのステージのリベラーチェとルネ


リベラーチェは、ルネのことを以下のように話しています。

"I think Rene is one of the most exciting singers 
I've ever had the privilege of introducing to my audiences".

「ルネは、私の観客の皆さんに誇りをもって紹介できる
最も素晴らしいシンガーの一人である。」
(source: Daytona Beach Morning Journal Feb 12 1977)


  Liberace Finale

やはり、リベラーチェは、すごいエンターテイナーです!


source:Rene Simard magazine (my own)

 リベラーチェの楽屋の前のアンジェリル。隣には、ルネの楽屋。


CBSと契約が成り立っていたら、二人のマネージャーが必要だったこのようなスキルと理解を助けてくれる大きな力を得られ、CBSの持つ組織や繋がりを使ってルネを売りだし、世界的なアーテイストに育て上げるということが可能であったのだと思います。


この数年後gcの元で仕事をするのを辞め、ケベックでJohny Farago, Ginette Renoなどのマネージャーの仕事をした後の1980年に、アンジェリルは、やはりケベック出身の12才だったセリーヌデイオンと出会い、デイオンを国際的な大スターに育てることに成功していきます。その背景には、ルネの全米進出の失敗から得た経験と大きな教訓があったからだと想像しないわけにはいきません。


 
Celine Dion - Un Amour Pour Moi
デビューして2年後の14、5才のセリーヌデイオンの歌と画像です。
その頃の、アンジェリルの姿もあります。


今や世界的なアーテイスト、パフォーマーとして活躍するセリーヌデイオンの姿を見るたびに、いつもルネのことを考えます。ルネもデイオンのことを考える時、いろいろなことが胸に広がるのかもしれません。今もラスベガスのステージやコンサートツアーで忙しく過ごすデイオン、デイオンが19才になった時に結婚し、ケベックからアメリカ、世界へと育てていったデイオンの夫、マネージャーとしてのアンジェリル、そしてアメリカ進出を断念、バンクーバーやトロントなどのカナダの英語圏で一時的に活躍し、ケベックに戻って歌手活動を続けたルネ。ミュージカルの舞台などに出演やプロデユースをしたルネ。結婚してからは、家族を大切にし、現在は、テレビ番組などの制作などをして過ごし、カメラの背後での仕事をするのが好きで、家族と穏やかに暮らすルネ。テーンエイジャーのルネのその後には、多くのことが起こりました。


Celine Dion & Rene Simard - Une colombe / L'oiseau (ADISQ, 1998)

1998年のADISQでルネとセリーヌデイオンが共演。二人は、お互いのデビュー曲を皮切りにヒット曲をメドレーで歌っています。

Celine Dion sings JAZZ, "Quand on s'aime" with R.Simard

ルネの2003年のアルバム"Hier...Encore"の中に収められたセリーヌとのデユエット曲。

テーンエイジャーのルネのことがとても知りたくても知ることができなかったあの時は、悲しかったけれど、歳月が流れた今になって全米進出という目標を持たされたルネに何が起こっていたのかを知ることは、私にとって価値のあることでした。そしてこの本をもとに、一歩後ろに下がって、タイムラインのような流れでその経過を見ることができたのも良かったと思います。


アメリカ進出が成功しなかったという経験をルネが現在どう考えているのかルネの胸中はだれにも分かりませんが、先週の記事の内容を読んで考えてみるとルネが今の人生を楽しんでいること、シアワセに暮らしていることは、私たちにも伝わってくるのだと思います。




source: Rene Simard 25 ans de showbiz 1996 (my own)

ルネのデビュー25周年記念号の雑誌(1996年)からのルネと家族。
右から、息子 オリビエ、ルネ、娘ロザリー、奥さんのマリージョセ
そして愛犬、Yolande







26.3.13

第12回東京音楽祭のルネとナタリー ビデオ ルネの記事


 ビデオトラブル!

今回の記事は、とっても遅れました!なぜかというと、どうしても今回の記事に使う予定だったルネとナタリーのビデオがこのページにアップロードできないという今までには経験しなかったトラブルが(大げさですね。。。)発生していたのです。。私のビデオの編集とそれをexportするプロセスでおかしくなってしまっているのか、または、ブロガーのサイト自体が少し変わったのか。。毎夜のようにいろいろと方法を変えてアップしようとしていたのですが、「もう、疲れた!」という気分になりつつあるので(笑)、このままの状態で一応記事自体のアップだけしておこうと思います。ビデオは、引き続きアップの努力をいたしますので、そのアップの時を楽しみにお待ちくださいませ。今のところ、ビデオを見ようとしてもエラーのメッセージが出てしまいます。


日本のルネのファンのお友達がまたお一人増えました!

フェイスブックの日本のルネファンの輪に、先日またお一人お仲間が増えました。「ルネを日本へ」のグループに参加されたいと連絡がありました。とても嬉しいです。そしてフェイスブックにいるファンの方達も嬉しそうです。いっしょに交流が持てることを楽しみにしていたいと思います。

私たちのように、いまだにルネを想い、昔の思い出、そして現在のルネの様子などについてお話したりしたい、そしていつか、ファンの手でルネの来日を実現させたいと願うルネのファンが日本には一体どのくらい残っているのだろう。。。というのが私のいつも考えることだと前回の記事に書いていたと思うので、このルネのファンの方の出現は、心が震えるほどに嬉しいことです。このブログやkeiさんの「ミドリ色の屋根は永遠に」のブログを読んでいてくれたそうです。ルネのことについて現在でも身近に感じられるということがとても嬉しいとお話して下さいました。ルネのことを想うファンのみなさまに一人でも多く出会うことができるのをみんなで楽しみにお待ちしております。どうぞ、フェイスブックのアカウントをお持ちになり、もう一度ルネファンとしてひとつになりましょう!アカウント名は、本名でなくても大丈夫です。



 それでは、以下がずっと書きとめていた今回の記事です。

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今夜の記事は、前回に引き続き、1983年3月に行われた、第12回東京音楽祭前夜祭からのルネとナタリーの様子。そして翌日の音楽祭のステージの最後で、グランプリ受賞者に花束を渡す二人の姿のビデオを紹介します。そして、この来日を果たす前に日本に行くことついて語っているルネの記事のこと。





この記事は、公式のファンクラブを持たないルネがほとんど公式のように認めているジゼルさんのpassion rene nathalie, regis simardというフェイスブック上にあるファングループのページでジゼルさんが公開してくれた、1983年の切り抜きです。

このページは、だれもが見られるページです。vippassion simardという、もう一つのページがあり、そこでは、passion rene nathalie regis simardのページでは、公開されていない画像やビデオを観ることができます。このページのメンバーになりたい方は、まず、passion rene nathalie regis simardのページのlikesを押し、vippassion simardへお友達リクエストをするとメンバーになることができます。この vippassion simardのメンバー(お友達)となると、passion rene nathalie et regis simardのページでは、最後まで観ることのできなかったビデオや、そこでは紹介されていない画像なども見ることができます。そして、ルネのことが本当に今も好きな人たちが集まっているので、その方達とも翻訳機能を使ってお話することが可能です。

それでは、まず、ビデオから観てみましょう。最初のビデオは、今まで紹介したビデオに続いているものなので、今回紹介するのは、パート5と6と7になります。パート5では、ルネがナタリーが日本でデビューすることを紹介している様子。パート6は、ナタリーの日本デビュー曲の「五月の手紙」を歌う様子。そしてパート7は、音楽祭の特別ゲストのバリーマニロウの紹介の様子。ステージの終わりでルネとナタリーが花束贈呈をする様子です。

第12回東京音楽祭前夜祭パート5:
ルネがナタリーの日本デビュー曲の紹介をしています。








パート6
ルネに紹介されて、ナタリーがいよいよ「五月の手紙」を歌います。




   
 パート7
音楽祭の特別ゲストとして来日したバリーマニロウの紹介です。ここで、バリーは、私が今まで気がつかなかったことを言っています。来日するのは、この時がまったくの初めて。そして音楽祭のあとの2週間は日本全国で、コンサートをする予定なので日本のいろいろな地域を見るのが楽しみだと言っています。東京では、渋谷のNHKホールで少なくとも2度したことは覚えています。私は、そのどちらにも行っていたような気がするのですが。。。本当に2度行ったかどうか記憶が鮮明ではありません。でもコンサートの様子は、よく覚えています。とてもすてきでした。ファンを舞台に上がらせていっしょに歌をうたったり、ダンスをしたり。一人だけでしたから、会場のファンはとってもうらやましがっていました。さよならする時には、もちろん頬にキスをしてお別れ。次回の記事には、世界大会のゲストとしての彼のステージの様子を少しご紹介したいと思います。この時にバリーは、42才くらい。まだとっても若々しくて可愛らしいです。ルネは、この東京でのバリーのコンサートに出かけていたそうです。NHKホールのあの会場のどこかでルネもこのステージを見ていたのでしょうか。





  

パート8
これは、前夜祭の翌日の晩、東京武道館での12回東京音楽祭世界大会のグランプリ発表の様子です。史上初の2組のグランプリ受賞者。その2組に、お祝いの花束を渡したのが、ナタリーとルネでした。最後の最後にほんの少しの時間だけ、舞台での二人の姿を見る事ができたのです。ルネは、特別ゲストとして来日と言われていましたが、バリーのようなおおきなステージを任されるゲストではなく、結局花束贈呈だけを頼まれた。。。。ということはとってもショックでしたけれど、今考えると、ルネの来日は、どちらかというとナタリーの日本でのデビューをサポートするためという目的だったのだと思います。ナタリーとルネの姿は、2分ぐらいの場面で現れます。







ルネの記事から


この記事は、ルネがナタリーと来日した1983年の終わりごろ、または、84年のはじめの記事のようです。レポーターが、この83年の一年のことについてルネに聞いています。どのような年であったのか、どう思ったのかなど。ルネは、以下のようにお話しています。

「この一年もたくさんの素晴らしい事がありました。それをひとつひとつリストアップしたら、お話するのに大変な時間がかかってしまうでしょう。ボクの仕事のことをお話するなら、それは、ナタリーと一緒に日本に行ったことです。とても感動しました/心を動かされました。そして、それは、ボクが1974年にグランプリを受賞した東京音楽祭のそのステージだったのですから。」

ルネは、日本に行ったことをとても喜んでいたとジゼルさんがこの記事をシェアする時に書いてくれました。それをとても嬉しく読みました!

次回は、バリーマニロウのステージの様子を少しと、ルネとナタリーが出演したモーニングショーの様子 のビデオもご紹介できたらと思います。お楽しみに!

riko auckland

28.1.13

京都 2度目の平野屋さんへの旅 その1


新年のごあいさつ

Bonne Annee 2013!





大変遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。ずっと夏休みをすごしていたのに、このブログへの記事の投稿を一ヶ月ほどおやすみしてしまっていました。クリスマス頃から義母の容態が大変心配な状態が続き、入退院を繰り返していました。幸い退院ができ、やっと落ち着いた毎日となりました。私の夏休みももう間もなく終わりです。2月に入る前にブログの更新ができるようになり良かったと思います。生きて行くということは、本当にいろいろなことがあるものです。悲しい事や、苦しい事は、たとえ、クリスマスでもお正月にでも起こるのだということを痛烈に実感いたしました。また同時に、大変嬉しいことは、苦しいときでも嬉しく感じられるのだということも。うまくいえませんが、この夏休みは、このようなことの繰り返しだったような気がします。オークランドは、今日がオークランドアニバーサリーというオークランド地域だけが祝日となる日でロングウイークエンドとなっています。お天気も最高で、オークランドのワイテマタ海峡では、セーリングやカヌーレースなどの催し物でにぎわっています。

2013年が、皆様にとって、健やかで平和で、喜びを感じることがたくさんあるいい一年でありますようお祈りさせていただきます。

 
さて、では、今回の記事は、昨年10月、2度目に京都の奥嵯峨野にある平野屋さんへの旅についてです。平野屋さんがルネファンのみなさんにとって、どんな場所であるか忘れてしまったという方は、前回の記事をお読みになって下さいね。



10月に日本へ戻った本当の目的は、母の入院と手術のためでした。そしてその手術の内容、容態の深刻さは、実家に到着したその日に初めて知らされ、そしてその翌日には入院、翌々日には手術という忙しいスケジュールで日本での時間がスタート。ですから、それから10日間ぐらいの間は、ずっと病院での付き添いと看護という毎日。病室で寝たり、家に帰って洗濯、おにぎりを作ってまた病院へという毎日は、想像していたより大変でした。それから、老齢の両親にipad でfacetimeが出来るように猛特訓というのもほぼ毎日。



 facetimeの特訓中。
オークランドにいるうちの猫とパートナーを相手に練習。


というわけで、母の様子が一段落して、さあ、日本での残りの数日一番何がしたいかと自分に訊いてみたら。。。「ゆっくりと平野屋さんに一人で行ってランチを食べること」という返事。そしてさっそくその翌日、京都へ向かう新幹線に飛び乗りました。なりふり構わずまったくの普段着でという感じで、ただひたすら、静かなところでゆっくりしたいという一心だったように思います。何につけてもルネとかかわり合いのあることを考えてしまうのは、自分なのですが、今もこうして「ルネと生きる」というような生活ができることをこんな時でも幸せに感じたのでした。


JR嵯峨野嵐山駅 に2年ぶりで降り立った私は、前回のバスは利用せず、徒歩で平野屋さんに向かうことに決め、iphoneでルネの歌を聴きながら、残暑の中、歩き始めたのでした。そして忘れずに平野屋さんへランチの予約の電話をすると、電話口に出られたのは、懐かしい女将さんの声。そして2年前にお邪魔させていただいてルネのお話をした自分の事をもう一度告げると女将さんは覚えていてくれていました。女将さんにはなんの予告もなくメールもしないで、出かけてしまったのでホッといたしました。駅から歩くのなら30分か40分見ておいた方がいいということで、ランチの時間を決めたのでした。


平野屋さん付近は「嵯峨野鳥居本伝統的建造物群保存地区」なっています。そのいい雰囲気の道をずっと歩いて平野屋さんへ向かいたいと思われる方は、だれもが降り立つ南口ではなく、この北口を降りて、鳥居本のサインをたどって行くとその道が見つかります。ただし貸し自転車で行きたい方は一度、南口へ降り立ち、貸し自転車屋さんを探して下さい。

注* 
平野屋さんに徒歩で、ルネの歌を聴きながら向かいたい場合には、ルネの歌の入っているiphone, ipod, ipadなどには、十分バッテリーを準備しておいたほうがいいですよ。写真をとりながらそしてルネの歌を聴いているとすぐにバッテリーが残り少なくなり、安心した気持ちでルネの歌を楽しむ事ができません。(私が経験者でもあります。)

保存地区までの道を探すまで少し迷うかもしれませんが、この清涼寺までたどり着けばもう大丈夫。この力車の行く方向に曲がります。 (私の来た方向は、お寺の看板がある方向です。)では、バッテリーを気にしながら撮影した平野屋さんまでの写真を紹介していきましょう。



 清涼寺


そしてしばらく歩くと、左手に宝筐院。ここは、女性だけが宿泊できる宿坊でもあります。大変人気があるそうで、予約される方は早めにしておいたほうがいいそうです。何度か宿泊しようとしたことがありませすが、いまだに宿泊できたことはありません。



 このお店は、2年前に平野屋さんでとることのできなかった食事をしたところです。もう夕方であまりお店が開いていないという頃でした。湯豆腐がどうしても食べたくて、このお店に飛び込みました。中に入って行くと、そこは、江戸時代の終わりか明治のはじめ。。といったら言い過ぎかもしれませんが、とっても雰囲気のあるところでした。テーブルもサブトンもとっても小さくて、ガラス戸入りの障子があり、お庭も見えて。。。なんだかジャックと豆の木のジャックになってしまったような錯覚に落ち入りました。おとなりは、瀬戸内寂照さんのお寺。ちょうど瀬戸内寂照さんがお話をされている時とかで、女将さんと二人で聞き耳をたてましたが私にはよく聞こえませんでした。。。



 そして、ここが化野念仏寺への入り口に向かう石段。まだ紅葉には早すぎ、緑がとてもきれいでした。




そして少し歩くと、あの懐かしい、そして特別なルネの思い出のある赤い鳥居が見えてきました。このあたりに平野屋さん専用の駐車場もあります。


 この写真、なかなかいいと思いませんか。ルネが鳥居の下の石段に座ってすこし右上を見ていたあのかわいらしい姿を思い出すからです。ルネが右上を見上げた頃は多分8月頃。緑がもっと生き生きしていた頃だったのでしょうね。


 ルネが見上げていたのはこの辺り?
(バスが走る道路がこの樹の上にあります)

ルネは、この石段の4段目に座っていたのですね。 この時の写真を見てみると、ルネは、あのかすりの着物を着ていませんね。女将さんのお話では、ルネが平野屋さんで写真撮影をした時、ルネは、すでに着物を着ていたそうなのですが、一体どこで着替えをしていたのでしょう。それともこれは、大覚寺でお茶をすすった時のルネの服装と同じですから、翌日または前日に写されたものなのかもしれませんね。化野念仏寺でのルネもこの服装だったと覚えています。

 


 この写真は、2年前の12月に平野屋さんを訪問した帰り、化野念仏寺に寄ったときに撮影したものです。ミドリ色の屋根は永遠にのkeiさんにお借りしたルネの雑誌の画像にある場所を見ると、記憶に残っていた通り、まさにルネが石を積んでいたのは、まさにこの辺り!真ん中の大きな石塔の右側の石塔だったのではないでしょうか。こんなことに喜んでいるのもおかしいことかもしれませんが、大感動!これから化野念仏寺に出かける方は、入場料500円(だったと思います)を払って、この同じ石塔に石を積んで来て下さいね。笑 10月の訪問の時には私はこのお寺には寄らずに帰ってまいりましたけど。


 では、平野屋さんへ行ってみましょう!

この写真で思い出しましたが、facebookでのルネの日本のファンのお友達が、前回の記事を見て、今日本ではホンダの車のコマーシャルで、この平野屋さんが出ているということを教えてくれました。そこに出演しているのは、ジョンレノンの息子さんのショーンレノン。そして一番最初にでてきた東寺は、パートナーと出かけていた思い出のあるお寺でした。ご紹介しておきましょう。かわいらしく「ちょうどいい!」を繰り返していますよ。

このサイトでこのコマーシャルのビデオも観ることができます。




では、ルネの座った場所を見ながら、中へと入って行きましょう。


 ランチをするために通された部屋です。もちろん個室。落ち着いた昔ながらの日本間という感じのところでした。障子を開けると、平野屋さんの有名な鮎の生け簀が手前にあり、その向こうには、池があります。障子の近くに置いてあるのは、私のデイパックとお茶のボトル。。。!ここに写ってしまっていたとは気がつきませんでした。そうです、私は、デイパックを(またしても)担いで出かけていたのでした。

 ずっと歩いて汗をかいていた私は障子を開けさせていただいて気持ちのいい風で、涼をとることができました。この部屋に座ってこの眺めを見た時、初めてホッとできたと感じました。ルネの元へ来れたというか、自分の来たかった場所に来れたというか。。。ここで初めて癒されるという気持ちがしました。

 お部屋の入り口の障子。廊下もお部屋もさすがに築400年という雰囲気でまるで博物館の一室にいるようでもありました。



 そしてすぐに仲居さんがお茶とおしぼりを持って来て下さいました。そのあとは、ランチのお料理を何にするかについて。。。と楽しく美味しい時間が過ぎて行ったのでした。


今回の平野屋さんでの時間の中で一番嬉しかった事は、やはり女将さんとのお話がゆっくりと二人でできたこと。そして、 前回の時に、女将さんにお見せする事ができなかった現在のルネの写真やビデオでお見せすることができたこと。ipadにたくさんのルネとルネの歌を入れて持参していたのですが、それを女将さんは、なれた手つきでひょいひょいと次々にルネの画像を観て、感想を述べてくれたのでした。「ipadを私も使っているんですよ!便利ですよね!」といいながら。可愛らしかったです。



みなさんは、信じられないかもしれませんが、女将さんは、ルネがあの時どんな歌を歌っていたのか、どういう人だったのか、まったく知らなかったそうです。そして今回ルネの歌「ミドリ色の屋根」をipadで聴くまでまったく聴いたことが無かった!のです。ルネがどんな人なのか、かいつまんで、ささーっとお話して、現在の父親、夫としてのルネ、現在の様子などをお話しました。ルネの息子さんと娘さん、そして奥さんと一緒にいるルネを観て、幸せそうですねと言われていました。


そして、ルネの歌を聴いたあとで、女将さんは、 「この子は、とっても心が澄んだ歌をうたっていたんですね。」見た感じと同じ純粋さを感じられると。そして現在のルネを見て、「今もその面影があって、ステキに年をとられている」と。その時の女将さんの言われた言葉通りではないかもしれませんが、確かに女将さんはこのようなことをおっしゃってくれました。



続きは次回です。次回には、女将さんがルネについてお話して下さったビデオを紹介いたします。女将さんには、昨年発売となったルネのCDとブックレット、2003年に発売になったルネのCD(本物ではないんですけど。。。)をお送りしましたので、感想を聞くのを楽しみにしています。




Rene to Japan!

 あ、そうでした。ルネのCDを受け取ったローラさんは、今まで聴いたことのなかったルネの曲をはじめ、このCDに付いていたブックレットの中のルネの姿、そしてこのCDが今でもルネとルネの歌の思い出を大切にしている日本のルネのファンのリクエストで実現化したものであるということを知って、大変感動されています。そしてルネのファンページpassion simardへのページにルネ宛に、ルネは、1974年の記念の年である来年の2014年(なんと40周年!)絶対日本に行ってファンの人たちのためにもう一度何かをするべきだというメッセージを書いています。そしてfacebookに集う日本のルネファンに向けて、Rene to Japan!というスローガンで、ルネの関心を引くというようなメッセージを送って来ています。もし、ルネが日本にきてまたファンのために歌いたいという気持ちになったらとても素晴らしい事です。そのときがいつ来るかわかりませんが、facebookに集う日本のファンが力を会わせてルネが来たときのための計画をスタートしようということになりました。

小さな規模でもどこか素敵なホテルでルネのデイナーショーなどが実現できましたらほんとうに胸がいっぱいになることでしょう。そしてプロではなく、私たちファンの手でそのお手伝いができたら!ルネのファンであるみなさんも、この大冒険の計画に参加されませんか。あるファンは、もうどんな服を着ていったらいいかという可愛らしい心配をされています!果たしてこの想いがルネにとどいて、そしてどんな形でもルネを私たちの手で日本に呼ぶことができる日が来るのでしょうか。ルネと出会ってから39年目の夢は、まだまだ広がって行きます。

それでは、また次回に、平野屋さん(の記事)でお会いいたしましょう!


 riko auckland