日本から戻りました
日本へ行く前にルネと会った時間についてのエピソードを書き終わすと言っていたのに、やはりそうできず、書いている途中のままになっていました!
日本から戻ったのは、10月18日。そのあとも、うちの猫の様子がおかしくて獣医さんに行ったり(バランスが定まらず、ヨロヨロと歩く!)、そしてパートナーの母親が入院ということになり、また忙しくなっていて、ブブログの記事を書くという時間も気持ちを探すのも簡単ではありませんでした。日本へ行った理由は、私の母親が入院、手術ということになったからだったのですが、本当の状況は日本到着まで知らされていませんでした。手術の付き添い、看病などで、人の一生について、健康でいることのありがたさ、家族の大切さとありがたさなどなどこれまでよりも深く考えたり感じたりする18日間でした。
幸い、母親は、現在自宅にて回復していますが、手術の後に酸素マスクや点滴などいろいろなチューブをされて意識が朦朧としている姿なのに、「いてくれてありがとう、迷惑をかけたね」という母の言葉を聞いただけで、もう涙でいっぱいになりました。兄に「本人は泣く事が一度もなかったのに、おまえが泣いていてはだめ」とさとされてしまいました。
「親が死んでしまう時は、このような顔なのだろうか」などとまたそんなことを考えながら酸素マスクをかけて苦しそうに寝ている母親の顔を見ているとまた、涙がでてしかたがありませんでした。そして驚いた事には、そんな時にでも、いつも考えてしまっていたのは、ルネのこと。それは、ルネ自身のお父さんが、数年前他界していたからでした。ルネも、お父さんが亡くなる前には、何度も病院へ行って、お父さんの弱々しい姿と対面していただろうと。ルネは、その時どのように自分の気持ちと格闘したのだろう。。。そしてお父さんが他界した時には、どれほど辛くて悲しかったかと考えていました。たとえ、過去に親とどんなことがあったにしても、自分の親が自分のいるこの世界から離れてしまうのを経験することは、言われようも無い悲しい事です。
ルネとお父さんのジャンロックシマール氏
日本では、最後に、2日間だけ自分の自由になる時間がありました。その一日目は、どこかに行きたいとしたらどこだろう?と考え、京都の奥嵯峨野にある 400年続くという「平野屋」さんにゆっくりとお昼ご飯を食べに行く事だと思いました。ルネファンの皆様ならご存知のように、ここは、38年も前にルネが 明星の取材で撮影をしたところです。毛氈がひいてある店の縁側に座って、お茶をすするルネ。絣の柄の着物をきて、下駄もはいていました。 2年前に初めてお邪魔した時には、一人旅をしていた私に親切にしてくれた二人の見ず知らずのおじさまたちと一緒だったこと、時間がなかったのでお団子しか 食べる事ができなかったことで、心残りがありました。その時、ルネについてお話をさせていただいていた女将さんにもお会いしたかったので、いい機会だと 思ったのです。このことは、またこのブログの記事としてお話させていただきたいと思います。とにかく、心配と疲れでいっぱいだった私にとって、平野屋さん でゆっくりさせていただいた時間は、静かな至福の時でした。お昼頃から4時頃までお部屋で女将さんとルネの思い出をお話ししながら、過ごさせていただきま した。
京都、奥嵯峨野「平野屋」の女将さん
ルネが座っていたところに座っています。
さて、 では、ルネとの時間について書くのですが、その前に83年にルネが第12回東京音楽祭のプレゼンターとして妹のナタリーと来日した時のことから書きます。その時に感じたことと85年にルネに実際にお会いした時のことが似ているというか、自分の中にずっとその83年のときのルネのイメージが強く残っているままで、何かつながっていたように思うからです。うーん。。。なんだかうまく表現できないのですけど。。。書いているうちに自分の言おうとしていることがわかってくるかもしれません。。。
83年にルネに会ったというのは、実は見ていたというのが正解です。それは、私が東京音楽祭の出場者が宿泊していた東京プリンスホテルの東京音楽祭用の宿泊券で泊まっていたことから可能になった事でした。音楽祭の前日にあった前夜祭のパーテイ会場にも招待され、そして翌日の音楽祭の鑑賞券もあり、会場に行く事ができました。
大人になったルネの姿をこの目で初めて見たのが、その前夜祭のパーテイ会場でした。いくら大人になったルネの姿を手に入れた記事やレコードジャケットで見ていたとはいえ、私の中にはいつもあの小さな13才のルネがいたのでしょう。大人のルネを見てとても嬉しかったのですがそれよりも、なによりも、その姿をみて愕然となったのです。「もうあの13才のルネは永遠にいなくなってしまったのだ!」と。そして、そんなルネに寄り添うナタリーを見ると、それは、まるで13才のルネの生まれ変わりのような姿!大人になったルネが気遣うように一緒にいるまるでルネのようなナタリー!何も言えず、ルネやナタリーのところに行く事も出来ず、何かの背後でそんな二人を見ながらただただ涙がこぼれていました。嬉しいというよりショックで打ちのめされた。。。。というのが一番近い表現かも知れません。
上の写真にあるのと同じ服装の二人。会場に飾られていた桜の花の前で録られた写真をもとにつくったファンクラブメンバー用のカード。 このときのパーテイの様子は、TBSでその数日後放送され、そのビデオを持っているのですがまだdvdにしていません。その放送を見た方なら覚えていらっしゃるかもしれませんが、会場のステージで、ルネとナタリーが二人で「ミドリ色の屋根」を歌い、そのあとルネが妹のナタリーを英語で紹介。日本でデビューすること、そしてカナダ(ケベック)では、もう数枚アルバムを出していることなど。そのあと日本でのデビュー曲、「五月の雨」を紹介し、そしてナタリーが歌い始めました。
第12回東京音楽祭のプログラムの本の終わり頃にあったナタリーの紹介記事。「五月の雨」のプロモーション用の記事だと思われます。
そのあと(前かな?)は、ゲストであったバリーマニロウ、音楽祭でグランプリをとることになるライオネルリッチーなどそうそうたるメンバーとの談笑。ちゃんとお話しているというよりもテレビのカメラやカメラマンの要望に応えてポーズをとっているような雰囲気だったように思います。
私もそのすぐ横にいたのに、ルネに会いに行く事はとうとうなかったのです。信じられませんよね。。。サインも写真も何も頼めませんでした。サインは、だれかがもらってくれたので持っていると思うのですが。それも私が胸にかけていたパーテイ用のネームカードの裏か何かに。。(ルネとナタリーがしているネームカードと同じものでした。)
とにかく、とても大きな出来事、ルネとお話しするチャンス!だったのに、私は何もできなかった。。。というのが 本当の事です。ただルネがその時持っていた雰囲気は、すごく大人で落ち着いていて、静かで、思慮深いというかジェントルマンというか。。昔のおちゃめなルネの雰囲気はそこにはなかったのです。きっときちんとした席だったからなのかもしれませんね。そしてナタリーの面倒も見ていたからでしょう。この数分後、ホール周辺で涙をぬぐっていた私は、部屋へ向かおうとエレベーターを待っていたら、ルネがナタリーを連れてエレベーターのところまで来たのです。。。ええええ!どうしよう。。。ここでエレベーターに乗るのをやめてもおかしいし。。ということで、エレベーターにルネとナタリーそして私だけの3人で乗る事に。。で、どうしたと思いますか。二人にプライベートな時間をあげたいという気持ちから、天井をむいて、そしらぬふりをしてしまった私。どうしてこうなるのだろう。。。と考えながら、その時間はアッと言う間に終わってしまいました。ナタリーは水疱瘡で熱があったためルネがナタリーを部屋まで連れて行ったようです。翌朝は、ホテルのレセプションでナタリーがだれか日本人の女の子たち二人ぐらいとどこかへ出かけたのを見ているので、熱はひいたのでしょう。
えーと。。。ここまで書いて自分がなぜこのことをルネとオタワでお話したことを書く前に書いているのか。。。まだ疑問ですが!きっと私の中ではこの時の83年のことをずっとまだひきずっていたのだと思います。私の中にいた「本当に好きだったあの小さなおかっぱ頭のルネ」はいなくなったのだと。そしてそのことが受け入れられずにいた?というような。。。きっとそんな感じだったのでしょう。
そしてこの2年後にその小さなルネではなくなったルネに会うということになるとは想像もしていませんでした。モントリオールでも、どちらかと言えば、ルネと直接会うということを避けていた私でしたから。。。どう大人のルネに対処していいかわからなかったからでしょう。。。どう受け入れたらいいのか?とも言えるかもしれません。(勝手な事を言っていますね!)私の中には、まだまだ13、4才のルネがずっと住んでいた/いるのですから。
そんな私が突然、また「大人のルネ」「大きくなったルネ」に会うということになったのです。。。うーん。。。今度は、ちゃんと話さなくては!
では、私と一緒に、大人のルネに会いに行きましょう!
(次の記事で書きます。。。あああ。。。でも、今夜のうちに書いてしまいますよ。きっと。。。)
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